〒150-0042 東京都渋谷区宇田川町2-1 渋谷ホームズ916号
Tel:03-3477-1135   Fax:03-3477-1833
E-mail: kalin@rondo.plala.or.jp
HOME > エッセイ

 エッセイ L−184 船が出ます! 

2015年05月01日 

 もうすぐ、7年越しのイベント「船の旅」が出港します。思えば7年前、遣唐使の時代、仏教が海を渡って中国から日本へ、そんな時に10艙の船がどの位日本へたどり着いたか、又は中国へたどり着いたか、それを考えると、海に沈んだ多くの先人を偲ばずにはいられないと思い、中国地方の中国観音霊場会と一緒に観音聖地普陀山へ船をチャ-タ-して行きました。それからずっと『もう一度船の旅を』と言い続けて、もうすぐ叶う事になります。なぜ、今船か!それは船の旅でしか味わえない一体感です。
食事や夜のイベント、大きい船内ではありますが、すれ違うお客様達、何とも言えない雰囲気と一緒に旅する喜びと、絶対にお勧めが船の旅です。
現在400名以上の参加予定、是非皆さん楽しみにして下さい。このエッセイが掲載される頃はすでに出港していると思いますが、みなさん旅は是非『好きな人』と、どんな方でも、一緒に価値観を分かってくれる方が良いと思います。ベストはご夫婦、家族です。
どんな旅でも是非お楽しみ下さい。                                   林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−183 もう四月が終わります。 

2015年04月15日 

 早いものであっという間に4月が終わりそうです。歳をとると月日が早いと言いますが、全くその通り、と言うほど歳は取っていないつもりですが、そうなってくるのですね!
さて、毎年恒例の学生ツア-と言うか、「中国でホ-ムステイ」交流今年も総勢50名近くの方にホ-ムステイ体験交流をして頂きました。中でもラボの団体は30周年と言う節目の年であり北京の民族文化宮での公式式典は、全校生徒参加の、まあ一言でいえば「中国式」バリバリの公式行事が行われ、なかなか体験できない行事を参加者の方は味わったと思います。
逆に上海での交流も30年だったのですが、これは全く逆で、「学生」により企画発案行事、これまでにホ-ムステイを体験した中国の学生が自分たちの体験を話したり日本への興味を持った理由とか、色々しゃべってくれて、大変楽しかったです。中でも日本語の先生と学生がウルトラマンの歌を歌ってくれた事、いいな~と感激しました。上海では日本語の歌を歌う事で日本語を覚え日本人の心と言うか、文化など学ぶのです。数々のヒット曲、聞いた事のある歌を中学1年生から高校生まで、簡単な振りを付けて歌ってくれました。
本当にこんな場面は、「やっていて良かった!」と思える瞬間です。
もう一つの中学生のホ-ムステイもなかなか成果が有ったようで、普段あまりしゃべらない学生が良く喋ったとか、中国の見方が変わったとか又来たい、とか銘々それぞれ、感想を聞かせてくれました。
本当に若い人たちって良いですね。
そういうと最初の『歳』の話になるのですが、過ぎてしまった青春時代、私にもこんなチャンスが有ればと、考えながらわが子同然にかわいい子どもたちでした。
皆さんありがとう!!                                         林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−182 30年ぶりの同窓会 

2015年03月04日 

   標題に有りますように、30数年ぶりに『友人達』に会いました。学校とかではなく、初めて行った中国旅行での仲間です。その中の1人は「通訳」をして頂いた方、今では日本在住の何と築地の食品会社の有名人です。
思えば約30数年前、中国語もままならない時に中国へ行きましたのでその時の通訳さんには大変お世話になりましたし、逆にこの方と出会う事がその後の私を大きく変えたと言っても良いかもしれません。中国に良い印象と深い思いを私の中に残して頂き、私がその後中国関係の仕事をするようになったのもこの時の旅行がきっかけでした。
そういう意味では「誰と出会うか」は人生の大きな要素ですね。
昨夜は楽しいひと時を過ごしましたが、考えると今の自分は当時のこの方と同じ立場にあるんだと実感しました。
私がご案内する中国、又は他の国、場所が良かった,楽しかったと思って頂けるのは、やはり私の仕事ぶりが大きく影響するでしょうし、又それに対しての責任もありますね。
「初心忘れるべからず」、この方との再会、最初の中国の印象を今新たに思い出し、又頑張ろうと思った一時でした。大変おいしいお魚を頂いた事付け加えて置きます。                                  林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−181 自分の役割 

2015年02月17日 

   この処、色々な場所で、(かと言っても3か所ですが)「ホームステイのコツは?」と聞かれる事があります。
毎年恒例の中国でのホ-ムステイ交流がいよいよ始まりますので日本各地にて説明会を開催しております。その席には、参加者とそのご家族の方々、小さいお子さんは小学5年生から大学生まで、年齢層は幅が有るのですが、皆さん「初めての中国・初めてのホ-ムステイ」は共通です。
不安要素、心配、聞きたい事、たくさんあると思いますが、時間の制限の中、一番関心を持って尋ねられるのが、先の言葉です。
ホ-ムステイのコツ、は基本状況が皆違いますので、一概には言えませんが、長年の勘からすると、「人間性」と言うか、いかにそのホスト、およびそのご家族とコミュニケ-ションをとるか、で有ると思います。
ホ-ムステイはもちろん、同年齢、同性のホストが事前に決まりますので、お互いに学習している「日本語・英語」のどちらかの言語でコミュニケ-ションをとる必要が有ります。どちらも母国語ではないので、言語的には不十分な場面が出てくるとは思いますが、もっと不十分な事は、その家族とのコミュニケ-ションの方法です。もちろん親は、語学を母国語、つまり中国語しか話せませんので、子ども以上に、不安に思っています。
「私の子どもはうまくホ-ムステイ交流できるのかしら?」そして日本にいる親は「うちの子大丈夫かしら?」とそれぞれが各思いで案じています。そういう状況の中、実際の中国側の受け入れ家族は、言葉が通じない状況にありますので、もっと心配ですね。そこで最初に書きました『人間性』です。その案じている状況をどうやって打ち破りコミュニケ-ションを取れるようにするか、が大事です。急に言葉が出来る訳ではありませんし、目の前に当事者がいる訳ですから、双方大変ですね。
私のアドバイスは、「視覚・聴覚」など使って、道具を準備してはいかがですか?と言うものです。例えば家族写真、学校の友人達、日本の紹介パンフレット、自分の好きな趣味、ペットの写真、自由研究の題材(中国の物価を調べる)など色々とその家庭に居る自分を想像して準備をする事です。その為にはまず自分の事を紹介する資料を作りましょう。中国の人も「日本ってどんな国?」と思っています。その疑問をきっかけに何か資料を作りましょう。今は市役所などに中国語のパンフレットが無料で有りますのでそれをそろえても良いと思います。又日本を紹介した文章や写真、折り込みチラシをうまく利用して日本の物価を教えても良いと思います。何か工夫して家族との時間のコミュニケ-ションを大事にしましょう。と言うのが私の持論です。
是非この3月、60名近くの子どもたちが北京・上海を訪問し初めてのホームステイ体験をします。大きく変わって行くこの子どもたちの姿に自信を持って送り出して下さい。1年で一番楽しみな季節が間もなくやって来ます。ご期待下さい。   林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−180 イタリア⑤ 最後の晩餐 

2015年01月08日 

  今回の旅で一番印象深いのは何と言っても「最後の晩餐」を見学できた事です。事前予約、現地旅行社、すべて見学不可能、でしたが、奇跡的に見る事が出来ました。方法は?とここに書きたいところですが、こればかりは書けません。いつもの「りんさんの幸運」としか言えませんが、願いが叶いました。皆様にも幸運が来ますよう2015年も良い年で有りますようお祈りいたします。  今年も宜しくお願い申し上げます。                                  林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−179 イタリア④ 列車の旅 

2015年01月08日 

  ヨ-ロッパでの移動のお勧めは列車の旅です。ヨ-ロッパ中どこでも行けて、早めに購入すると安くなりますし、便も多く、快適です。もちろん事前に買って行くのが便利ですし安心ではありますが、駅では気軽にすぐに購入できます。正規料金での購入なら空席が有る限り変更も可能です。自動購入のシステムが非常に便利、改札は無く、すぐに列車に乗り込めます。車内での検札になりますが、今はすべてコンピュタ-管理、よって事前に購入の控えを持っていればすぐに終わります。1等車は、快適なうえに飲み物も無料配布、かわいいおんな子が乗って来てお互い通じない会話でのコミュニケ-ション、なかなか味わえないひと時でした。列車での移動は是非お勧めです。                                       林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−178 イタリア③ ミラノ

2015年01月08日 

  最後の都市はミラノです。ちょうどバ-ゲンシ-ズン、世界中からの買い物客でいっぱいです。と言うのも、一流有名ショップもバ-ゲン商品が有ります。実は今回お客様と少しのぞきました。そのドアを開けるには勇気が必要でしたが(大きい男の方がドアボ-イ)女二人なら心強いものです。中に入るとさすが、日本人の良いお客様だと見られたのか、すぐに「下の階に、バ-ゲン商品が陳列してある」と教えてもらい、そのまま地下の展示場所へ、しかしこのものすごい円安と、有名ブランド商品自体年々値上がりの為、バック1つとっても数十万円、少し値段を見ただけで退散しました。世界中の観光客がこのミラノでのお買い物を楽しんでいる感じ、目抜き通りは人であふれているお正月の3日、4日でした。ちなみに空港のショップも安くなっていました。  林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−177 イタリア② ヴェネツィア 

2015年01月08日 

  さて次は、お勧めの都市、ベネッツィアのお話し。
駅を降りるとすぐに「サンマルコ大運河」さすが水の都「ベネッツィア」です。
水上バスで運河を回り、ホテルへ行きます。今回は、サンマルコ広場の近くのホテルでしたので港も「サンマルコ広場」で下船、石畳みの道をス-ツケ-スを引き、歩いての移動です。ホテルの場所が良いと、見学、移動にも便利ですから、これは重要ポイント。
どこを見ても写真になる景色、暖かい薄紅色の壁の家並み、緑と白のコントラストの水辺の光り輝く景色、ゆったりとゴンドラを曳くイタリアらしい風景、本当に印象深い町です。
小さな路地には、有名ブランド店から小さな雑貨屋さん、ピザやパスタのおいしい食堂、そしていくつもの寺院、本当に素晴らしい町です。ここへは絶対新婚旅行に行かれるようお勧めします。
やはりシ-ズン中なのでここも人でいっぱい、建物の隅に、どの方角が主な広場なのか橋なのか書いてありますので、少し歩けば大体の方角が分かります。小さな路地を歩きまわるのも面白いと思います。                  林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−176 イタリア① ローマ 

2015年01月08日 

  2015年度最初の仕事は、年末年始、イタリアへ行ってきました。
私のイメ-ジとは全くかけ離れた国ですが、(自分で思うだけですか?)それこそご縁あって、お客様とご一緒に初めてのイタリアへ、ローマ・ベネッツィア・ミラノと3か所を回りました。
お正月のシ-ズンでも有りましたのでどの都市も、世界中からの観光客でいっぱい、幸いお天気にも恵まれ、快適な楽しい旅が出来ました。
ここで少し現地情報、ローマでの事、バチカン市国のサンピエトロ大聖堂、ヴアチカン博物館の見学なのですが、もちろんローマでは一番の見どころで、個人旅行の場合は、自分で入場が原則の為、朝から大勢の方が並んでの入場です。チケット売り場の行列だけでもものすごく多く、購入だけでもなかなか難しいのですが、現地で少し手数料を払えば、長い列にも並ばず、入場できる事が分かりました。
長い列に並んでいると「ダフ屋」らしき様相の方が来て、「チケットが有る」と話しかけてきます。要は現地で臨時に20名位のツア-グル-プを組み立てて、チケットをまとめて購入、グル-プとして入場させると言うものです。
見分け方は、係員が一緒のナンバ-プレ-トと、着ている制服が、同じ様相な方が、鍵です。ジャンバ-には「○○ツア-」と名前が書いてるので、分かりやすいかもしれません。
英語での話しかけなので、一瞬「だまされるのでは?」と思いますし、日本人なら、「やっぱりきちんと列に並んで!」と思うかもしれませんが、待つ時間は長いし、又かなりの長蛇の列、見ただけでうんざり、そこで私は思い切って彼らを信じて、言われるがままに、近くの事務所へ付いて行きました。
結果1人、手数料8ユ-ロ余分に払っただけで、列にも並ばず、すぐに入場出来ました。その規定の人数が集まるまでは、少し待ちますが、10分くらいのものです。色々な国の外国人観光客に混ざって、ガイドらしき人に付いて門まで行き館内に入場、中のチケット売り場で入場券をもらい入場ゲ-トを通り、中で解散、そこからは各自自由に見学です。併せて博物館見学が終われば、隣のサンピエトロ宮殿までも並ばず徒歩で中庭を通って行けますので、断然便利です。自分自身で好きな処を好きな時間見学できます。
同じく、有名な「コロッセオ」でも通常のゲ-トは長蛇の列ですが、この入場券は、隣のクラウディオの庭園の入場券も兼ねていますので、先にそちらで購入し、庭園や遺跡を見学してから同じ入場券で、「コロッセオ」見学。並んでいる人達を横目に、堂々と入場できます。
もちろん団体旅行の場合は、事前にチケット購入、ガイドさんが丁寧に案内してくれますが、自由にならない事も多く、最近は個人での旅行が多くなっています。そういう場合、少しだけお金を支払っても、早く入場できるこの方法はお勧めです。時間とイライラの解消にはなりました。
もちろん今回はシ-ズン中ですので、こんなに人が多いのですが、シ-ズンオフの時はそのまま並べば大丈夫でしょう。いづれにしても見どころの多い都市でした。                                   林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−175 オーストリア 

2014年06月14日 

  皆さん、この夏、私は贅沢にも、中国ウルムチから、カザフスタンの国境迄、1週間旅をしてきました。
誰と?どうして?と言うのは、今回は置いておいて、まあ、お誘いが有りましたので、ちょうどタイミングも良く、仕事と言うよりも、「行ってみたいな」と思ったものですから、少々早目、長めの夏休みとなりました。
岡山空港から上海へ、2時間、乗り継ぎ5時間、空港トラブル待機時間4時間、上海ウルムチまで5時間、何と夜中の2時到着です。やっと中国の西のはて、「ウルムチ」へ到着、2日目からは、早速車でウイグル自治区を合計2000km走行の旅です。
ウルムチから石河子、国境の町吉木乃、ここでは国境検問の場所まで行き、記念撮影、それから国道と言うか、どこまでもまっすぐな道を通り、アルタイへ、ここには「クナス自然保護区」があり、広大な土地の中は、原住民以外はすべて車を乗り換え、電気自動車にて区内を走行、国立の自然区と言うだけあって、それはそれは素晴らしい広大な景色が広がり、それは、まさにヨ-ロッパにも負けないほどの大自然が広がっていました。
ご承知のようにただいまこの地区はやたらと「少数民族のテロ活動」が報道されていますが、やはり検問等は厳重で、いわゆる「よそからの入境者」は、身分証明と共に、理由を聞かれます。もちろん危険な雰囲気もそこにはありましたが、基本やはり検問など厳重である方が逆に安心と言うか、有る意味何事もなく、ウルムチからカザフスタン、又中国の大エネルギ-地区の見学も兼ねて、十分に雄大さを満喫してきました。
途中の砂漠は植林運動中、又石油の発掘現場の幾万もの壮大な装置、風力発電の大きい羽根の機械の多さ、又少数民族は、今でも「パオ」 の移動民族ですので、各家族専用のソ-ラ-発電の装置、宿泊ホテルも自家発電が当たり前、ここはここで大都会と違う別の生活形態が有りました。
水は、雪山からの澄んだ水、飲み水は、水道設備もありましたが、基本、自家用浄化水道装置を備え、ホテルには大きなタンクは当たり前に備え付けてあり、お風呂はシャワ-のみ、これは5つ星のホテルでもそうでした。
河の水はあふれんばかりでしたが、すべてのエネルギ-を大事に使っているのは良く分かりました。いわゆる自然との共存、北京や上海の大都会とは別世界の異次元の空間でした。
ひたすら走る車、ガソリンは、この付近の油田から豊富にありますが、値段は都会と同じ、全国的に統一しているそうです。しかし石油の恩恵と、となりのアジア、ヨ-ロッパからの天然ガスの何万キロのパイプライン、資源は本当に豊かですが、この14億もの国民を支えるのにはこれだけでは足らないと言う事でしょうか。
このウイグル自治区だけでも日本列島がいくつかすっぽり入ってしまう面積とそれと同じくらいの砂漠、とてつもなく広いすごい大自然の中、着々と中国の発展の様子が見られました。
車移動の2時間3時間は当たり前、中国人が車移動を少しも苦にしないのも分かりました。
本当にすごい、そしてこのままこの自然がずっと残ってほしいと願いつつ、十数年ぶりのシルクロ-ドの旅でした。フェイスブックにて公開しておりますので、是非写真をご覧下さい。                                 林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−174 久々のシルクロード 

2014年08月13日 

  皆さん、この夏、私は贅沢にも、中国ウルムチから、カザフスタンの国境迄、1週間旅をしてきました。
誰と?どうして?と言うのは、今回は置いておいて、まあ、お誘いが有りましたので、ちょうどタイミングも良く、仕事と言うよりも、「行ってみたいな」と思ったものですから、少々早目、長めの夏休みとなりました。
岡山空港から上海へ、2時間、乗り継ぎ5時間、空港トラブル待機時間4時間、上海ウルムチまで5時間、何と夜中の2時到着です。やっと中国の西のはて、「ウルムチ」へ到着、2日目からは、早速車でウイグル自治区を合計2000km走行の旅です。
ウルムチから石河子、国境の町吉木乃、ここでは国境検問の場所まで行き、記念撮影、それから国道と言うか、どこまでもまっすぐな道を通り、アルタイへ、ここには「クナス自然保護区」があり、広大な土地の中は、原住民以外はすべて車を乗り換え、電気自動車にて区内を走行、国立の自然区と言うだけあって、それはそれは素晴らしい広大な景色が広がり、それは、まさにヨ-ロッパにも負けないほどの大自然が広がっていました。
ご承知のようにただいまこの地区はやたらと「少数民族のテロ活動」が報道されていますが、やはり検問等は厳重で、いわゆる「よそからの入境者」は、身分証明と共に、理由を聞かれます。もちろん危険な雰囲気もそこにはありましたが、基本やはり検問など厳重である方が逆に安心と言うか、有る意味何事もなく、ウルムチからカザフスタン、又中国の大エネルギ-地区の見学も兼ねて、十分に雄大さを満喫してきました。
途中の砂漠は植林運動中、又石油の発掘現場の幾万もの壮大な装置、風力発電の大きい羽根の機械の多さ、又少数民族は、今でも「パオ」 の移動民族ですので、各家族専用のソ-ラ-発電の装置、宿泊ホテルも自家発電が当たり前、ここはここで大都会と違う別の生活形態が有りました。
水は、雪山からの澄んだ水、飲み水は、水道設備もありましたが、基本、自家用浄化水道装置を備え、ホテルには大きなタンクは当たり前に備え付けてあり、お風呂はシャワ-のみ、これは5つ星のホテルでもそうでした。
河の水はあふれんばかりでしたが、すべてのエネルギ-を大事に使っているのは良く分かりました。いわゆる自然との共存、北京や上海の大都会とは別世界の異次元の空間でした。
ひたすら走る車、ガソリンは、この付近の油田から豊富にありますが、値段は都会と同じ、全国的に統一しているそうです。しかし石油の恩恵と、となりのアジア、ヨ-ロッパからの天然ガスの何万キロのパイプライン、資源は本当に豊かですが、この14億もの国民を支えるのにはこれだけでは足らないと言う事でしょうか。
このウイグル自治区だけでも日本列島がいくつかすっぽり入ってしまう面積とそれと同じくらいの砂漠、とてつもなく広いすごい大自然の中、着々と中国の発展の様子が見られました。
車移動の2時間3時間は当たり前、中国人が車移動を少しも苦にしないのも分かりました。
本当にすごい、そしてこのままこの自然がずっと残ってほしいと願いつつ、十数年ぶりのシルクロ-ドの旅でした。フェイスブックにて公開しておりますので、是非写真をご覧下さい。                                 林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−173 オーストリア 

2014年06月14日 

  スリランカから帰国間もなく、ウイーンへ行く事になりました。
もちろん事前に決まってはいましたが、行く直前まで、渡航準備どころか、航空券も手に入っていなく、バタバタと成田空港へ向かいました。
ご存知の方もいらっしゃるかも知れませんが、国籍の関係でこれまであまり遠くへ行く事は憚られておりましたが、最近やっと、この自由が味わえるようになり、大いに仕事と趣味も兼ねて、行ける時は行こうと、出かける事が多くなりました。
皆様には常日頃から「行ける時に行きましょう」と言っておりますが、その言葉を自分でも楽しんでいる今日この頃です。
さすが、飛行時間11時間、機内では映画を4本も見ましたが、終わってみるとあっと言う間でしたし、西へ行くのは比較的時差は過ごしやすい事が分かりました。昨年のアメリカへの渡航よりも、時差調整は楽だと思います。
さて「音楽と芸術の都、ウイ-ン」本日写真と共に皆様へお届けします。
オ-ストリア1国だけの旅でしたが、十分満足できる日程でした。(自分で言うのもなんですが)
ウイ-ン、ハルシュタット、ザウツブルグ、どれをとっても絵にかいたような街です。特に湖畔の美しさが光るハルシュタットは、お勧めですよ。
これまで中国をはじめ、かなりの国を回りましたが、10本の指に入る位素晴らしい景色です。
もとより、旅の印象と言うのは、天気や時期、何より一緒に行った方にもよります。
今回も数十年お付き合い頂きましたお客様がご一緒でした。
旅はやはり「誰と行くか!」が結構重要なポイントです。
是非皆様、「行きたい」と思った時に、素敵な方と、旅をお楽しみください。それはすぐ近くでも楽しいと思いますよ。
この旅のご報告は又続いて書かせて頂きます。                                 林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−172 スリランカ 

2014年06月13日 

  インド洋に浮かぶ、北海道より少し小さい仏教国、スリランカへ行ってきました。
このところ海外へ出かける事が多く、社員からはうらやましがられておりますが、以前お話ししました「国籍」の関係でこれまで何度も行きそびれた国を、今回っている最中です。
しかしながらこの国は、20年前にも訪れており、懐かしさと同時に、全く違う国のように発展していました。一時は日本からたくさんの観光客が行っていたのですが、(国名がセイロン)4年前の内戦が有ってから、軍事政権となり、観光客がしばらく遠のいていたようです。
主な幹線道路には、「地雷」が有ったそうですから、それはやはり大きな歴史の傷跡と言うしか有りませんね。
しかしながら、ここ最近は、日本や中国などの援助もあり、アジアの他の国と同様、目覚ましく社会が変わろうとしています。
アジアを回ると、本当に地球は一つと感じます。民族、宗教、文化、など、一言、「皆同じ人間」と言ってくくることもできます。
改めて「世界はひとつ」です。
スリランカの印象は、少しのんびり、でも頑張っていて、皆豊かになりたい、しかしこのままだと自然がなくなる、などなど色々と浮かんできますが、他の国ではありますが当たり前のどの国も望む発展を遂げつつあります。
広い国土のようでそんなに広くない国、人口2千万人、小さいながらも周りを海に囲まれ、隣の大国インドの影響を受けつつ、自国の産業を守り育て、有名なお茶は、85%がロシアへ輸出しているそうです。
本当に世界は繋がっていますね。
セイロンティ、本当においしかったです。一緒に行った方、皆さん、お土産はやはりお茶でした。又この紙面で、皆さんにお伝えします。明日からオ-ストリア、ウイ-ンへ行ってきます。                           林 淑英  

ページTOPに戻る

 エッセイ L−171  ブータンのお話 その(2)

2014年05月19日 

 お祭りでは、何より皆さんの「衣装」が特徴的でした。民族衣装は男性は「ゴ」女性は「キラ」と呼ばれる、日本の和服に似た民族衣装を身に付けています。学生の制服もこの衣装です。
おまけに模様迄もが日本的なのです。ちょうど「かすり」の模様と「チェック柄」のような、色も落ち着いた原色の淡い色、よってブ-タンに居ると何もかもが「日本的」に映るのです。田畑や山の感じも、建物の色、形を変えて見ると、日本の山里の風景にぴったりです。
どこか懐かしい、日本の風景です。
しかし国としては大部分お隣の国「インド」の影響を受けており、例えば食べるものも、インドからの輸入品が多く、肉、魚などは、いったんインドまで運び、そこで加工食品にしてブータンへ運んで流通するという、「殺生」を禁じている国なのです。
もちろん、貿易赤字の小さい国ではありますが、皆さんのんびりと、又各お店には国王夫妻のお写真が飾ってあり、物価は高いけど、つつましくのんびりと生きている感じです。
びっくりしたのは、「教育」です。ブ-タンでは子どもたちが、非常に多く見られますが、大体結婚すると2人は子どもがほしいそうです。教育費などは無料、学校は中学まではすべて国営です。しかし近年は、外国人の為の観光業にも力を入れており、中学卒業後は専門学校へ行く子供たちも多く、その部分は私費です。しかし驚くのは、なんと、小学生からの授業は国語の「ゾンカ語」以外はすべて「英語」を使っての教育だそうです。その為、お祭りの最中も子どもたちが英語で「My name is ○○」と自己紹介から始まり、話しかけてきます。人懐っこい感じが一昔前の日本の農村の子どものようです。まさにほほえみの幸せな国ブータンの宝ものと言えるでしょう。楽しい旅となりました。                               林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−170  ブータンのお話 その(1)

2014年05月13日 

  今日は中国から少し離れて今回はブ-タンのお話しをしましょう。
「ブ-タン」と言うと皆様の中には、「世界一幸せの国」と言うイメ-ジが有るかと思います。近年の調査で国民の幸せ満足度が世界一と発表され、一昨年ブ-タン国王と王妃様が来日、一挙に「ブ-タン王国」の注目度がアップ、今ではブ-タンへの外国人観光客は日本人が第2位となっています。
今回は「ツェチェ祭り」を見に行きました。人口が国全体で70数万人のこの国に、第二の都市パロ付近のデヤン広場でのお祭りは最も多くの人が訪れ、延べ五万人が参加する5日間続くお祭りです。
この時とばかりに、近くの村から町から、とびっきりおしゃれをした老若男女がこのお祭りを見に来ます。お祭りの内要は主に、仮面をかぶった踊り手さん達が、いくつかの物語をおかしく楽しく、あるいは真剣に、踊ったり歌ったり、朝から晩まで延々と広場で演じるのです。グル・リンボチェの誕生日とされる毎月10日この日、大なり小なり各地で宗教的なお祭りが有りますが、この4月は特に盛大に、又田植えの前だったり長い冬の終わりだったり、春の花も咲く季節なのか、特に4月は盛大で、大勢のブ-タンの国民とそれを見物に来る外国人と、それは、それは人口の少ないブ-タンがホテルも飛行機も満員になる位の規模のお祭りとなります。案の定、世界各国からの見物客も多く、又ブ-タンでも祝日となりますので、着飾った男女が楽しそうに、お祭りと買い物と、本当に和やかな「幸せ」を感じるお祭りの滞在となりました。                         林 淑英

 エッセイ L−169  特定非営利法人普陀山仏教文化交流協会(2)

2014年01月14日 

  前回の続きです。
なぜ特定非営利法人普陀山仏教文化交流協会を立ち上げたのか、というきっかけはお話しした通りです。
目的は「仏教交流」です。
中国では経済が豊かになり、有る意味「精神的文化」を欲してくる傾向にあります。これは中国だけでなく、世界中の有る種の傾向と言えると思いますが、「幸せになりたい」「出世したい」「お金持ちになりたい」と思う人の心はどこにでもあるようです。
ここ中国普陀山が現在年間400万人もの参拝客がお参りに来るというのは有る種、異常な位、多い数です。大多数は福建省を中心とした南方の方々が多いと聞きますが、それにもまして世界中からの参拝者が絶えません。もちろん日本からのこの中国観音霊場会は毎年参拝を欠かしませんが、それ以外に韓国、東南アジア、カナダ、アメリカ、ヨ-ロッパなど、年々益々その輪が広がっていくようです。
普陀山では、有る種「聖なる地」と言う事で、不思議な現象が起きると言われています。
皆さんは、北緯30度説、など聞いた事が有りますか?普陀山は北緯30度線付近に有り、これと同じく位置する世界でも名高いもの、チベットのポタラ宮殿、また世界最高峰のチョモランマも30度付近、世界で最も深いと言われるマリアナ海溝、また中国でも景色の素晴らしい又不思議な観光地、武陵源や黄山、銭塘江の大逆流などなど、この北緯30度にまつわる色々な神秘の世界が広がる現象が有る事を言います。
又普陀山は「普陀楽渡海」の物語でも知られるように、海のかなたの「極楽浄土の世界の話にもつながっています。普陀山の隣前方にはまるで観音様が眠るようなお姿の島「羅迦山」が有ります。生きているうちは、普陀山へお参り、無くなった方への供養は「羅迦山」へ、併せてポ-タラカと言われ、その信仰心をさらに深めています。
それが理由でもないでしょうが、「普陀山へお参りすると願いがかなう」と言われています。
日本でもお礼まいりという習慣が有ると思いますが、1人の方が願いをお願いして普陀山へお参りする、それが叶う、そしてそのお礼に行く、そしてまた口コミなどで、知り合いを連れていくなど、良い仏教信仰循環作用もあり、年々国内外からの参拝者が増え続け、今日まで普陀山は年々拡大化し、小さな港が、今や船乗り場のタ-ミナルにも巨大駐車場も出来、お祭りの日(観音様の誕生日、出家の日、無くなった日)は、入場制限と言うか、ここは船でしか渡れませんので、船の出港制限が行われ、それに伴い、島での宿泊費は何と上海よりも数倍高く、お金を出しただけでは解決しない位、賑わっています。
よって普陀山からは、行事の日と土、日などは、来ない方が良いとまで言われています。(我々にだけですが、あまりの混雑に接待が出来ないという意味で)
そんな普陀山ですが、やはりお参りすると何かご利益が有ったような気がします。
私個人的には現在もなお、このようにこの仏教交流にかかわる事が出来、また仕事として働かせて頂いております。そして何よりこの20数年間の交流で一番に頂いたものは「信用」でした。
どんな融通でも、それが理にかなったもので良いものなら、必ず賛同して頂きました。
代表的なものは、先の1991年の日本に帰れなかった慧鍔大師像と不肯去観音像を頂いた事でした。有る意味歴史的な交流にかかわらせて頂き、それ以後普陀山の仏教関係者の訪日団はもとより、日本を手本としたあらゆる分野での日本視察をお手伝いで来た事は私の一生の宝と言えます。(遊歩道・街燈・お参りの作法など年々島は向上しています)
これには日本の中国観音霊場会が絶対的に存在したとの事だと思いましたので、中国観音霊場会の方々に役員になって頂き、平成21年にこの、特定非営利法人普陀山仏教文化交流協会を発足させました。
これから、どんな事が有ろうとも、日本と中国のこれまでの歴史は変えられませんが、特に、この普陀山に関しては、現在日本が世界に誇れる仏教をうまく生活に取り入れ、穏やかな日本人の素晴らしい国を成し遂げたという先人の思いを、是非良いところを取り入れお互いに切磋琢磨しあい、尊敬しあい、仏教と言う精神的な文化を交流させていきたいと思っております。
私のこの欄でもこれから大いにこの話題は出てくると思いますが、是非中国5県にお住まいの方には、お近くのお寺にもしかすると普陀山からの仏像が安置されているかもしれません。ご縁が有ればお参りしてみて下さい。        林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−168  特定非営利法人普陀山仏教文化交流協会(1)

2014年01月09日 

 平成21年、5年前、この普陀山仏教文化交流協会を立ち上げました。
旅行会社なのに、と思われるかもしれませんが、これには、深い事情が有りました。
皆さんは中国の4大仏教聖地と言う仏教的観光地が有るという事はご存知でしょうか。

観音菩薩を祭っているところは、浙江省の寧波沖にある、舟山列島の小さい島、普陀山、普賢菩薩を祭っているのは、四川省の峨眉山、1996年世界遺産にも登録されました。文殊菩薩は、五台山、中国でも突出した仏教聖地と言われています。また地蔵菩薩を祭る安徽省の九華山、山水画で有名な黄山の近くに位置しています。

この4か所が世界でも「仏教聖地」と言われる仏教観光地となっていますが、中でもアジアで信仰が多い「観音菩薩」を祭っている普陀山ですが、今日はこの話をしましょう。

この普陀山の開祖は、日本人僧侶「慧鍔」(えがく)と言われています。紀元916年、日本の僧、慧鍔は天皇の命を受け、中国へ渡り、五台山から観音像を持ち帰り、日本へ帰国しようとしました。ところが、舟が今の寧波沖、ちょうど当時の明州を出たところ、今の普陀山沖に達したところに着くと、突然風波が起こり、海面一面蓮の花がばら巻かれたように、その舟が前進しようとしても、行く手を拒み、なかなか前に進みません。その光景を見た慧鍔は「観音様はここから立ち去りたくないのだ」と思い、普陀山の潮音洞に近付き、そうしてこの島の地元の住民に助けられ、その家に五台山から持って来た観音像を奉納しました。その後、普陀山はだんだんこの島へ専門に観音を供える島となって、慧鍔も普陀山の開祖として今もこの普陀山では、尊敬されています。これが現在の「不肯去観音」(行かずの観音)の言われです。今でも、潮音洞のところに、「不肯去観音院」が建立されており、普陀山を代表する寺院となっています。この「不肯去観音院」の前の石碑には、富士山で象徴される日本人僧侶慧鍔と、五台山へ行き、観音像を持ち帰りこの地に奉納した絵巻物風の立派な彫刻された石碑がそれを物語っています。その横に、「芸術長廊」と言って、日本の「中国観音霊場会37か寺」が、御本尊とともに中国語で紹介され、慧鍔の歴史ある功績を讃え、残し、日本と中国の仏教交流の証として、2mの高さの各寺院の本尊の観音像が37体祭られています。
20数年前、日本の中国地方(島根・山口・鳥取・岡山・広島中国5県)を代表する37か寺(1番から37番までの地域を代表する有名古刹の寺院で、特別寺院を含む合計37か寺)が、日本の僧侶が開祖である普陀山の話を聞き、昔20数年前、日本との仏教交流が稀な時代、また日本との関係もままならぬ時代、観音像を祭る日本の霊場会が、この地普陀山へ行き、「是非、友好交流を」と、申し出ましたが、この地には、軍事関係の基地も有り、諸外国との交流はおろか、対外的に開放もされていない場所でした。しかし中国観音霊場会の「三顧の礼」ではありませんが、その重要性を説き、同じ「中国」と言う言葉のつながりに「ご縁を」と、参拝を重ねました。
その当時の普陀山全山住職「妙善」大和尚の「有縁」(縁が有る)の一言で、1991年、日本からの100名を超す代表団と、普陀山の間で、日本に帰れなかった慧鍔像と不肯去観音像を日本の中国観音霊場会へ送り、それ以降毎年日本からの団参と中国からの訪問団の仏教交流が継続しているのです。
幸いにして、この仕事と言いますか、この場にいる事が出来た私は毎年の双方の交流のお世話をさせて頂き、今このようにお話しさせて頂いている訳です。
蛇足ではありますが、日中間が、非常に険悪な雰囲気で、反日運動が起こった年に、当時上海にいらした関東学院大学で近代の歴史を教えていらっしゃる田中史生先生が、この普陀山へ行き、先ほどの「石碑」を見られたそうです。それで中国の地で、日本人の僧侶がこれだけ崇められている事を知り、帰国後この慧鍔に付いて、研究されました。それのエピソ-ドが朝日新聞に掲載され、それを見てからのご縁で、何回か田中先生にこの慧鍔とか、仏教歴史について講義をお願いしました。近じか、慧鍔についての本格的な本が出版されるようですが、仏教の世界では、日本と中国は切っても切れない深いご縁が有る事だけに、是非皆様にお伝えしたいと思います。                                                林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−167  In OHIO ホームスティ先

2013年08月12日 

  今日は遠出のピクニック、このオハイオ州の隣はペンシルベニア、少し足を延ばすと又違った景色が見られる。今日は、「峡谷」の方へ、小さいダムと小川、又密林のような雰囲気の苔でいっぱいのサファリパーク、本当にアメリカは広い、ここでしばらくウオーキング、そののちランチ、家から持参したパンにピーナツバターとジャムを塗ったもの、野菜の切ったもの、こちらは本当に簡単、それ位普通に出かけるのだと思う。この前のピクニックは、サンドイッチなどのお店に、電話で注文、ピックアップして、公園へ、主婦が一生懸命ン作ることはなさそう、でも夕食は、朝から仕込み、圧力鍋で、朝からミートボールのようなものを煮込んでいる。

ところでここにきて「ラーメン」「うどん」など作ったのだが、どちらも、「スープ」が美味しいという返事、うどんよりラーメンの方が好きみたい、、とりあえず残さずに、お替りしていただき、一安心、明日は「寿司」を作る予定、ノリは有るらしいが、生の魚はないので、ツナ缶とかで間に合わせようと思う。                             林 淑英
ページTOPに戻る

 エッセイ L−166  In OHIO ホームスティ先

2013年08月10日 

  新しいステイ先へ移動してから4日目、慣れたというか、実感が沸かないうちに、時は過ぎて行っているようだ。ここはオハイオとペンシルベニアとの州境にある。5分もドライヴェすれば州をまたぐことになる。もちろん買い物も、平坦なオハイオと違い、坂道もあり、又違った雰囲気の街である。オハイオは本当に一部かもしれないがフラットな平坦な、緑の多い、広々とした感じ、ここは、他州に近いということもあり、家と家の間が比べて狭く、途中この地域は良くない地域とあからさまに言われた場所もあった。しかしこのステイ先には、近くに馬の牧場もあり、(小さいが)毎日散歩に行っている。
思うに、このホスト先には3匹の犬がいるが、犬が家族の一員は分かるし、又犬が家族の会話を結び付けていると言っても良いと思う。ここには23歳の娘さんが居るが、会話も至って弾み、この3匹がある意味クッションになって今日の出来事や、犬をきっかけに話をするのである。大いにセラピーの要素があると思う。いずれはこの娘さんは結婚して出ていくであろうし、現に今子供も生まれ、来年結婚式、フィアンセも同居、家を買いたいと物色中である。そうなった時に老人二人だとやはり寂しいだろう、まさに家族である。アメリカではこの動物たちの存在が日本以上に大事であるということが身をもって理解できる。家は広いし、周りは環境的には、問題はない。しかし日本では「飼ってはいけない」という環境の方が強い。よって今後は各家庭に犬、猫はいる方が多いだろう。土足と言っても、そこに犬はいるわ、赤ちゃんは寝ているは、本当にまったくその辺は、潔癖症の人にはびっくりである。前のホスト先ももちろん土足だが、毎日掃除をし、床には座らなかった。しかしここは、床には座る、ソファーには犬が寝ている、本当に、自分で掃除したいくらい、たまりかねて、ベランダで、トランプをした時に犬の毛があまりにすごいので、掃除を申し出た。大型掃除機が有ったので、少しでも、と、掃除機をかけてところ、喜ばれ、自分の為にやりたいと心から思った。ホームステイにはスーツはいらないし、教会へも皆普段着、ジーンズで構わない。                        林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−165  In OHIO ホームスティ先→移動

2013年08月06日 

  朝から落ち着かず、車に乗って別の相手先までの道中、何も言えず、涙をこらえるのが精いっぱい、子供たちが良く別れるときに涙するのはこんな感じかと、実はこっそり自分の気持ちを分析していた。悲しいというよりは、「感謝」の方がお菊、自分の人生に他人から、いろいろと気を使っていただいた事、やはり「感謝」しかない。又アメリカの懐の大きさ、私たちは、本当にそういう一部の人かもしれないけど、「助け合い」「国際理解」「楽しみ」などという、人間独特の本来の姿、の中の一部で支えられこの交流を行うことができると思う。
経済的にももちろんだが、実際ステイ中にそんなに大きいお金を使うことはないし、食事とかも自宅ですれば大丈夫だし、この辺は大いに甘えよう。
ラボの記録とダブるのでやめにしよう。                                 林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−164 In OHIO ホームスティ先 

2013年08月05日 

  今日は日曜日、教会の日、先週の経験があるので、早速出発、覚えてくれている方もいて、皆さんと気軽に挨拶、中には日本h絵言ったことが有ると、かなり親密に話しかける老人も、皆さん結構きちんとした服装で、おしゃれ!
教会での内容はさておき、ラボっ子のみのりちゃんとも会い、会話が弾む。しかし帰り際、ホストのフローレンスが、だれかと、話をしていて、それから期限が悪い。「帰るよ!」とご主人のロッドさんはまだ話したがっているのに、さっさと車に乗り込み、今にでも帰ろうとしている。雰囲気を察して、フローレンスと、車の中に待機、女性だから何かあったのだろう。帰りの後かたずけもしなく、(ほかの人がしていたが)変な感じ、とりあえず自宅へ到着。すぐに着替えて、パソコンをしている。お昼近くなのに、でもここでは自分でお昼を食べる。冷蔵庫にあるものを、まあ、パンに、ハムをはさみ、野菜を少し、朝の残ったコーヒと、それをもって好きな場所に座り、お昼ご飯とする。簡単。しかし今日は雰囲気が重いので、「何時にピクニック?」と会話を交わすつもりで聞くと、{朝は2時と言っていたので、2時のつもりで聞いたら、「書いてある通知の紙がない」との事、事務局へ電話してコールバックの電話で、「5時から」と、、、アチャーまた頭に来ることやらせてしまった。昨日から今日の2時と言い続けていたのに、間違ってしまった。また、気を悪くさせることが出てしまった。ロッドさんは少し、「5時ね!」と皮肉っぽく言ったのがまた、ひっかっかってしまった。「やばい!」と、私は2階へ上がり、「出かけてくる、3時ころ、昼ごはんは自分で食べるから、心配しないで!」と、外出。実は昨日「ウエンデーズのハンバーガー屋さんを近くに見つけそこで無料WI-FIを見つけ、日本へラインをしたのだった。それが有ったのでこれは良い機会と、出かけ、今日はその横に、「チニーズレストラン」があるのを確認していた。久しぶりに食べたいと、そこを目指していく。午後1時なのに、だれもお客は居ない、どうやら、テイクアウトまたはデリバリのお店のよう!「ラーメン」「麻婆豆腐」「ビール」と頼むと、あいにくビールはなし、アメリカに来てこの酒豪の私がまったく飲んでいない、これは奇跡である。このことは日本に居る主人への最大の大ニュースである。とにかく後の2つを頼むと「Too,big ,you not to eat」と言われ仕方なくマーボー豆腐をキャンセル、又出てきた「ラーメン」はいわゆる焼きそばで、「ラーメン」は、[Soup Nooodle]になるのだ、つい、やってしまった。そこで、Soupを見ると 酸辛湯があるではないか、早速頼む、なんとこの2つで5ドル、さしづめ500円、安い!さて今日は夕方5時まで、これを書いたり、選択したりするか、幸いラインがつながり、久しぶりの日本の気配、幸せ。                                    林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−163 随 筆 ①  読み応えあり!

2013年08月30日 

  先日、中国の月壇中学の国際交流担当の安先生より、「どのようにしてラボとの交流は始まったの?」と素朴な質問が来た。無理もない、この交流は、間もなく25年を迎えようとしている。またこの安先生も20代後半から30代、まさに、世代がいわゆる一昔前の先生と言えるだろう。
私がこの交流に、関わるようになって25年、そう一昔前である。これまでは、単なる旅行業者としてかかわってきたこの交流だが、このように世代が変わり、いつの日か私もこの現実の交流から去る時が来ると思う。またこの2か国をまたいだ日本と中国のまれにみる青少年交流をやはり後世に伝えておかなければならないと考え、つたない文章ではあるが思いつくまま書き留めておきたいと思う。
幸いにも今私には時間がある。今のうちに、この課題を片付けてしまおう。
私は2013年夏、公益財団法人ラボ国際交流センターが主催する「北米ホームステイ交流」に、引率者として初めて参加をした。
その行先のアメリカ、オハイオ州にて、優雅な時間を過ごしているのである。
ご存知の方は、この公益財団法人ラボ国際交流センターがどのような団体組織で、どのような教育事業を展開しているかはご存じであると思うが、私の理解する範囲で、簡単に述べておく。
新宿に本社を持つ公益財団法人ラボ国際交流センターは、1974年に設立され、主に絵本を通して世界の一流のお話と子供たちが出会い、それをサポートするのが、「テュター」と呼ばれる家庭夫人である。
テュター―は、自分の子育てとともに、「子供教育」に熱心な母親たちが、このラボの絵本の教材を使って、週に1,2度、自宅に近所の子ども達を受け入れ、一緒にテープ(今はCD)を聞いてその絵本のお話を膨らませ、想像し、その言葉を覚え(英語)また最後にはテーマ活動と呼ばれる集大成までたどり着くのである。
簡単にこう述べたが、私が出会ったテュターの先生は、どなたも何かしら普通と違って、「思い」があるのである。
その「思い」は何か、具体的に言うと数々思い浮かべることができるが、そのテュターが持っているもの、少しずつ書きながらご理解いただけたらと思う。これだ、というのが、言葉では見つからず、また、つたない日本語では言い表せなくそして決定的なのはどのテュターも、1人1人思いが違うということである。
少なくとも自分の子供以外の子供に、「入れあげる」(悪い言葉に聞こえるかもしれないが、良い意味でとらえて下さい)他人がそばにいるという事、学校の先生とは違う、お母さんとも違う、おばあちゃん共親戚とも違う、だれかがそばにいてみてくれる事、忙しいまた個人主義になりがちな現代では「うざい」という言葉で片付けられるかもしれないが、まさに、「うざい」けど、そこにいる、存在なのである。
それを一番に感じるのが今ここに私が参加している、国際交流の場なのである。
私は、その「中国交流」を担当させてもらって先に言ったように25年になろうとしている。今回は、中国交流が25年ならこの北米交流は40年を迎えるのである、その40年を迎える北米交流に私が言う「テュ-ター」として参加しているのである。
正確には、テュターには、子供を現場で教えている方々をいうので、私はテュターにはなれないが、少しでもそれに近づきたいと、今回はラボと付き合って25年、初めての北米交流である。
さて、話をもとに戻すと、ラボの国際交流で、私が目にしてきたものは、絶対に後世に残さねばならないと感じている。それは日本にも中国にも、そしてこのアメリカにも、共通の部分があるのではないだろうかと思うからである。欲張らず少しづつ、事実と感想を述べることにする。なぜならこれはラボの交流そのものでもあるが何より私自身の生きてきたそしてそれを職業としてきた自分自身そのものを書き尽くすのだから。
先に述べたように、この中国交流とラボ国際交流センター、私の人生にとって一番の出会いではなかったかと思う。もちろん個人的には、人並みに「家族、親」などとの出会いもあるが職業的に、そしてこう言えるかもしれない、私が唯一お話できる事、かもしれない。

 エッセイ L−163  随 筆 ②

2013年08月30日 

では早速、本題の「出会い」に始まる。
それにはまず私自身、という者を少し述べさせて頂く。少しお付き合いください。
私は、島根県生まれの日本育ち、大学で中国語を勉強した、いわゆる華僑2世である。苗字が「林」(はやし)だったので、大学へ進学するまでは「はやしさん」と、呼ばれ、また大学も普通に受験し、日本人と何ら変わりなく、普通に暮らしていた。その頃は中国人とか日本人とかまったく意識になく、たまに祖父母に海外からの「エアメール」が届き、それは、宛先が、林誠河先生と書いてあったので、「おじいちゃんは先生?」と聞いていた位だ。中国では○○様、を○○先生、と書く。またそう呼ぶ時代もあった。よってまったく中国人という事を知らなかった訳ではないが、意に介しないというか、他人事のように思っていた。一番強く感じたのは、16歳になったその日に、学校に父が来て、そのままオートバイに乗せ、私を市役所へ連れて行った時である。当時は16歳になると外国人は指紋押捺という制度があり、親指に、黒いインクを塗られ、ぐるりと塗りつけ、紙の上に、まさにぐるっと、指紋をつけるのである。現在では人権問題等で、いつしか、そのインクも透明になり、又今では電子指紋を取られる時代になっている。そういえばアメリカ入国の際には指紋を取られますね。日本ではもちろん規則なので、それに逆らう人はいないけど、世界には取られて困る人、それを人権問題と兼ね合わせる人など多数である。しかしながら9.11により世界は大きく変わった、「安全」には何物も代えがたいという観念が出てきた。先進国ほど逆にこういう部分は厳しいと思う。さて、話がそれそうであるが、その大学入学が私にとっての一番の変化である。地元の国立大学または女子短大にて、あくまで地元で進学し、就職し、結婚し、という父親と祖父母の希望から逃れるには唯一、「京都の光華寮」に入ることが条件であった。この寮は、いわゆる台湾の蒋介石の時代の国費留学生が日本の京都大学へ留学した際に、居住する為の中国人留学生寮である。これも話すとなかなか面白い寮であるが日本、台湾、中国とまたがり、歴史的な「光華寮裁判」つまり所有権が争われた、曰く付の中国人留学生寮である。なぜここに私が行くことになったか、島根県出身の私には、ここまで、この関西迄しか県外に出るチャンスはなく(東京など誰も行ったことがなかった)、「光華寮」に入るなら、という条件があり、またもう一つここで、「中国語」というキーワードが出てくるのである。まず、この光華寮、実は私の叔母がここに入り(京都で就職)同じ華僑と恋愛をし、結婚したのである。当時の私の叔父叔母の中で(父は8人兄弟の長男)の唯一の恋愛結婚だったのである。
当然両親はパッとしない私の将来を見込んで華僑がほとんど稀有な島根では、結婚相手も見つからないと思ったかどうか、ここに入ることは許してくれたのである。よって、入寮した時には、さすが「お化け屋敷」と言われるゆえんの暗い、古びた近代様式の洋館であるので住んでいるのはその台湾時代からの元留学生と、私と同じく地方から京都へ来た学生と職業人である。ちなみにここに入るには、もちろん華僑または中国人であること、それに紹介者が必要であるし、ここはここで知る人ぞ、知る場所であるので島根の田舎から入った私はすぐに「○○の姪っ子」という肩書で知られることとなった。またその京都には親戚もいて、両親は1人娘を心配すると同時に、寮生の男性諸君に、「よろしくお願いします」と頭を下げたのである。
もちろん今から思えば若かりし青春、同じ年頃の男性は多かったが、お互いに、興味もなく、またある人と意識しあう時もあったが相手が「司法試験」を目指していたので、それも恋愛には発展せず、のちに再びこの方と出会うのだが、本音はお互いに「結婚しなくてよかった」と思っていたに違いない。
さて、その大学であるが、当然勉強するのは「中国語」、箸にも棒にかからないほどまったくの0からのスタートである。
忘れもしない初めての授業日、私の前に座ったAさん、がこの大学での最初の友達、その方とはのちの31年後、あるところで出会うのだが、それは又の機会に話すとして、この時の話は「リン先生」である。
中国では同じ苗字は「親戚」とまではいかないがそれがきっかけになり、親しくなることは多い、会話のきっかけ、仕事のきっかけ、大勢いる中国人社会では当たり前の事かもしれない。そう私と同じ苗字、日本では、いくら「はやし」と呼んでも、先生には「リン」としか映らない。「リンシューイン」これが私の名前の中国読みである。
リン先生から初めて名前を呼ばれ、「はあ?」と返事をし、その後、何も分からずただ立っているだけの私に、いきなり、怒涛のような先生からの質問。今となっては、きっと「あなたの名前は中国人の名前だけど中国語は分かるの?」と聞いていたに違いないが、その時は、大勢の、しかもクラスメートの中、何が起こったのか分からず、ただただ、先生の顔をきょとんと、見ていただけ、先生もその異様な雰囲気が分かったらしく、しかし生徒の前では、(日本語をしゃべれることを隠したいに違いないと思うが)片言で、「中国語分かりますか?」と外国人がしゃべるアクセントで聞くだけにとどまった。そうこの授業は「中国語会話」、リン先生は、自分は、中国語しか分からないように、ふるまっていて、のちに先生とは、個人的にも親しくなるのだが、在日数十年、家に帰れば3人の自慢の息子の母親である。大学ではあくまで、中国語しか知らない大学教授、である。先生の面子をつぶすわけにはいかない。
手まねきして、私を自分の一番前の真正面の席を指さし、座りなさいと、、、、。(中国語のボデーイラングュエージ)、空いていた最前列に1人、座り、そこから私の大学生活は始まったのです。
ほかにも中国人の先生がいて、(黄先生というのですが)、この方はリン先生のご主人、つまりご夫婦で、この大学で教鞭をとり、大学教授、まさにお二人の間には「中国語しゃべれない中国人学生が入ってきたわよ」と私のことは筒抜け、しかしも、成績も良くなくて、同じ「リン」という苗字の先生には困りものの縁ある女子大生、黄先生からも何らかの目をつけられているのは分かるけど、最後の最後まで期待には応えられず、在学中に、褒められたのは一度だけ、今は、反省しきりである。(なぜ褒められたかはのちに!)

 エッセイ L−163  随 筆 ③

2013年08月30日 

こうして始まった大学生活、先の親戚も絡んで、私は当時、京大、立命館、同志社などという、革新的な大学の街、京都で、刺激的な大学生活を送ったのである。
そういえば、光華寮事件、今では判決が出て、「中華人民共和国」に所有権が属する、という高等裁判所の判決を頂いたのだが、これはこれでまた、厄介な問題が出てきた。せっかく「寮の所有権」が台湾ではなく、中華人民共和国に帰属する(つまり日本は台湾を国とは認めず、中華人民共和国を国と認めるということ)との判決ではあるが肝心の中国はこのことを把握しておらず、裁判中はずっとこの京都の華僑総会という華僑関係の事務をやっている組織と、光華寮の自治委員会という物が代わりに行っていたのだが(関係者が親戚と例の私の叔母夫婦とその仲間たち)肝心の中国大使館(当時は、担当大阪中国総領事館)がそのことを詳しく知らず、又、台湾と中国というややこしい部分にも触れるので、自分たちのものではないといい、全く話にならないのである。それもそのはず、裁判には勝ったが、その後寮の土地と建て物の維持と管理、所有権の移管、など数多くの手続きが必要で、又裁判費用などもあり、だれもこの難題な問題にはかかわりたくなく、資金もかかり、いまだに「幽霊屋敷」のままなのである。
京都の北白川のバス停前、というと知っている人は知っている、高級住宅地である。レンガ造りの5階建て、築100年にはなるかと思うが、3年前行った際には、昔からの留学生(今は80代だと思うが)家族が住んでおり(奥さんは若い)昼間は誰もいなく、声をかけても返事なく、この高級住宅街に、大きな敷地、「もったいない」の一言に尽きる。もし私にお金が有れば日中友好センターなど建設して、中国語、その他活用できると思うが、何せ当時は名前だけの委員長で、署名をするだけだったので、その資格はない事はよくわかっているつもり、結審した際に、新聞記者からのインタビューの申し出に、残念ながら「ただ実行委員会の代表の名前が一時的に書いてあっただけだから、詳しいことは華僑総会に聞いてください」としか言えなかった。光華寮に在住中は、唯一の女性で、外大に行っているものだから、祭り上げられ、委員長として、当時担当していただいた、弁護士の先生に、裁判費用のお礼として、他の幹部学生とともに盆、暮れの「お酒」を持って行ったのが一番のかかわりかもしれない。
この話も、いろいろあるがここではこの位にして、そう、大学で中国語を学んだことが私の人生を変えたといっても過言ではないとおもう。
ではなぜ、中国語を選んだか、1つはそう、この光華寮である。ここに入ることになれば両親はダメと言わないであろう、またもう一つは、高校の先生である。先の外国人登録をしたということで、担任の先生は改めて私が「中国人」であると認識したのである。
高校3年生のある日、学校の階段の踊場で、「はやし!お前は中国人だが中国語はしゃべれるのか?大学で中国語勉強したらいいではないか」と声をかけられたのである。私は、本当に普通のおとなしい学生で目立つこともなく、上からも下からもちょうど真ん中、そんな私に先生が初めて、ではないかもしれないが私自身の事に触れてくれたのである。先生はきっと覚えていないと思う。階段の踊り場のすれ違いの出来事だったから、でも私は今でもそのシーンを覚えている。白衣を着た小太りの先生(化学の先生)衝撃的な言葉だった。
「そうだ中国人で、しゃべれないんだ!」と、そして中国語を勉強しようと、その時はこの島根の田舎から抜け出ることなどあまり考えていなかったが、急に視界が開けたように、それから「中国語学科」のある大学を探し、運よく京都外大の中国語学科に入学できたのである。
高校の先生の一言、信じられないかもしれないが、それからの私は子供との接触の際には、割と感動的な言葉、感情的な、ポジティブな言葉をかけるようにしている。それは、学生時代は感受性も強く、大きな変化が生まれるかもしれない可能性の時期と信じているからだ、現に私もこの言葉で、変化が起こり、目標を持つようになった。少し前が見えてきたのである。よって現在、多くの学生と接する機会があるが、一言一言、言葉を選び、また、自身の体験からの言葉をかけるようにしている。自分の言葉が、人に影響を与えられるとは思わないが、万が一ということが有る。よって、人前では気にしてしゃべっているつもりである。
さて、このようにして、京都での大学生活、その後の私には多大な影響を与えた。ものすごくたくさんの人と出会い、様々な体験をしたのである。

 エッセイ L−163  随 筆 ④

2013年08月30日 

書ききれないと思うが、思いつくまま、そして「ラボ」へ結びつくよう、書いてみたい。
在学中、3年生の時に、夏休みの「アルバイト」の話が舞い込んだ。札幌で開かれる「中華人民共和国産業展覧会」のお手伝い、先ほど出てくる京都華僑総会と同じ、函館の華僑総会からの依頼である。と言っても身内、先ほどの、光華寮で恋愛結婚をした叔母のご主人が、ここで働いており、私を推薦してくれた。というのも、大型代表団なので総勢のべ130名位の来日だったと思うが、仕事は「来客の接待係り」、日本のお客様と中国の要人とのその場に「お茶」を持っていく、いわゆる日本式のお茶係。中国人スタッフだと日本での習慣等分からないことも多く、35年前の中国はまだ人民服を着ていた時代である。人民服の幹部に、毛沢東語録の勉強の時間、今は想像すらできない古い時代の光景ではあるが、そんな時代に、「日本人ではなく、華僑から、というあくまでも中国」ということで在日の女性が必要、と、約2か月のアルバイトの要請が来たのである。
当時は大学生、2か月というと、そのうちの1か月は大学を休まねばならなく、その時に、授業の代返ができない、語学の先生へは、休みの申請書を出すこととなった。実はこのリン先生と黄先生、お二人の大学教授も京都華僑総会の役員、事情はよく把握しており、大阪でのこの展覧会開催時には、自慢の息子さんたちも、この展覧会のアルバイトをしたのである。彼らのアルバイトはもちろん通訳、そんな訳で、「許可」はすぐにもらえたのだが、2か月、京都を離れ、1人、札幌の会場へ、右も左も分からず、だれにも話はできず、本当に1人でこの130名の中国人の中に飛び込んだのである。さすが、最初は「どこから来たの!」と、一人、異様な、中国語しゃべれない、しかも人民服でない私をもの珍しそうに遠巻きに見ていたので、さすが、負けてられぬと、展示販売品の中国の刺繍のブラウスを何枚か購入し、毎日それを着て、何とか中国人に見せようとしていたり、台所で玉ねぎの皮をむいていたら、自然と手伝ったり、とにかくこの団員の中に、付きまとっていたのである。一応アルバイトなので「何もしなくて良い」と言われても、と、結構頑張った記憶がある。
中には、私と同じ年頃の子供を中国へおいて来ているので、話しかけてくれたり、中国語分からないまま相槌だけで会話したり、しかしながら私はいつも「新華辞典」を持っており(これはお二人の先生からの命令)、それを引きつつ、聞き返したり、とにかくかわいがられようと、又何とかしようと、毎日、誰かにまとわりついていた。(そう、この言葉がぴったり!)そんなこんなで、少しづつ、打ち解け、ある日から、会計係の幹部の方と、市場への買い物に連れて行ってくれるようになった。中でも一番親しくなったのは、コックさん達、ほかの人たちは、国際貿易促進委員会という今でも中国の貿易関係の一番大きい団体だと思うが、皆さん半年近く出張でこの日本へ中国製品を売り込みに来ているので、それなりの方々ばかりであるとは思うが、私には当時そんなことも分からず、コックさん初め、気の会う方にくっついて、手伝いを中心に、仕事?をしていたのである。そうそのコックさん達とは、そういう意味で、食事の支度など、一緒に手伝い、餃子にはごま油を大量に入れることなど教わり、ある意味非常に打ち解け、市場でも私に、「これおいしい?」とか「これはどう?」とか、インスタント通訳の真似事をして、聞いてもらい、又その買い物の数量が半端でないので、札幌の市場の方にも、頼られ、しゃべったり、本当に楽しい日々を過ごしたのである。
そんな中、ある日日本のすごく偉い方が来るということで中国側も、今でいう、官僚クラスの方がこの応接室で、客人を待っていた時である。
もちろんその方とは当時も面識があるが、近寄りがたい、威厳もあり、他の職員とは違うオーラが有ったので、一度も目を合わせたこともなく、部屋の隅で、お湯を沸かして準備万端と待ってるが、やはり応接室での2人きりの重苦しい雰囲気、私は焦ることこの上なく、早く沸いたお湯をポットへ入れて退散しようと、お湯が十分に沸かないうちにやかんを引き上げた、その瞬間、「まだ沸いていない!」とその方が、私に声をかけた。びっくりして再度、やかんを載せ、又沈黙の時間が数秒間、この方は日本語が分からないはずじゃなかったのか、いつも日本人との話は通訳が入っていたし、だから本当にびっくりした。それ以来、私は中国要人、幹部は絶対にその国の言葉ができると思っている。また外交というのは、その国の言葉を必ず通訳を通して話し、書き留めることが前提だと思っているが、実は中国外交がうまいのもこんなところにあるのではないかとひそかに思っている。ただ単にそばに職員とか関係者がいるのではなく、何人かは絶対に言葉が分かっているのではないかと思う。まあその時はびっくりしたのだが、この経験はずっと身についている。中国人は必ず水は100度沸騰したものを飲む、しかし今は、ペットボトルの水を飲む時代である。さて、この時の日本側との要人の会見で通訳した中国人留学生がまたのちにすごい方となって出現するのである。そう、「出現」である。なんと「朝日新聞」に、これもまた後で書きたいエピソードであるのでのちに記述、しかし本当に「縁」はどこにあるか分からない。その中国側要人のその方は今はなくなっているとは思うが白髪のロマンスグレーの俳優のような整った顔立ちは忘れない。のちに私はこの団体から北京で招待を受けるのだが、この方がボスだと実感している。

 エッセイ L−163  随 筆 ⑤

2013年08月30日 

さてそれからもう一つ、特筆すべきことが有る。
そんなこんなで、無事任期を終え、いよいよ終わるときに、いつも一緒に買い物に行った「老ヤオ」が、私に「10万円」の給料をくれた。もちろん感謝の言葉とともに。実はほかの団員の皆さんも海外出張なので当時、日本で給料をもらっていたのが、それは中国での給料体系に基づき支払われており(若干のお小遣いは有ったと思うが)、当時の中国では、1か月日本円1万円にも満たない金額であった。私の京都からの交通費は例の華僑総会が出してくれていたので、住むところも食事も彼らと同じところで過ごしてきた私には、自分だけ日本での給料が支払われることに後ろめたさを感じていた。また当時、毛沢東語録を読んでいる時代だったので、毛沢東の給料も、1万円もなく、(純粋だった!)彼以上のこのお金はもらえないと断った。(毛沢東といえば今の国家主席、その方と比べて!という私の浅はかな考え)しかしその時に「老ヤオ」が、私に「あなたは日本で暮らしているので、日本での正当なお金を受け取ればよい、そんなに言うなら、このお金で中国へ来なさい」と言ってくれた。この一言で、私は、このお金をもらうことにし、その当時はその袋のまま、新札の10万円、その言葉通りに中国へ行くまで、使わなかったのである。
この時の感激と会話もずっと覚えている。涙とともに、「私は中国語を勉強できた事、皆さんとお友達になれた事、それだけで十分満足している」とつたない中国語でお礼の会話をしていたのを覚えている。この時はもう大学3年生なので、自分で辞書を引きながら、又多少の会話力はできており、自分の意見を言うくらいの中国語は正しいかどうかは別にして通じてはいたと思う。今でもめちゃくちゃな言語で中国人と会話をしているはこの時の「単語だけでも並べれば通じる」というハチャメチャな自分の性格が大きく影響しているかもしれない。(主人曰く、私の中国語は中学生以下らしい)
そんな訳で、大学へ戻った私は真っ先に、お二人の先生へ、中国語でこの時のアルバイト生活を述べたのである。よって、黄先生から中国語で初めて皆の前で褒められ、クラスメートはいったい何があったんだと、私の変貌にびっくりし、羨望のまなざしで、この時ばかりは4年間の大学生活の中で唯一、自慢できる瞬間だったのである。
というわけで私は今でも「中国」に借りがあると思っている。借りというのは受けた恩はかならず返す、任侠映画のようではあるが、やはりずっとこの10万円と、この時の経験が後の私には大きすぎるくらい影響を与えているのである。その時に出会った国貿促の幹部の方とはその1年後北京で出会うが、それ以降は連絡はしていない、何か困ったり用あれば、きっと思い出してもらえると思うが、基本、世話になっているのは私の方である、別の形にて恩返しがしたいと、ずっと思いつ続けてきたのである。
さてついでに、この1年後中国へ行った時の話。
大学4年生になり、卒業前の夏休み、例によって京都華僑総会から「在日華僑青年団」が組織され、日本にいる華僑青年が祖国中国へ訪問する、というツアーがあることを聞かされ、もちろんすぐに手を挙げた。当時その光華寮の自治委員長という事もありまた親戚がこういう仕事に(華僑総会など)従事していることもあり何かと借り出されていたので、この団体の「団長」を仰せつかった。実は23人居るのであるが、中国語は話せないのは数人だけ、後は横浜神戸と、華僑の学校へ行っている仲間が大半で、皆知り合い。特に神戸からの参加者は、皆中華同文学校という中国系の学校へ行っているか、又はその卒業生、中国語は全く問題ない。団長の私はもちろん大学生と言っても、人前であいさつなど、とんでもない。のちにどうして私が他を差し置いて団長になったか、問われた位である。まあそんなこんなで、初めての中国、例の10万円の約束もあり、夢見心地で中国へ向かった。またまたこの時の団員が、のちにすごい友人になるのであるが、それもまた、私の人生の波乱万丈の自慢の一つである。
さて、中国では例によって「団長」というのは、特別扱いである。車も皆と違う車、両脇には、通訳兼ガイド、最初に連れて行かれたのは「華僑大夏」、そこで北京市学生連合会会長との懇談、全くもってちんぷんかんぷん、その方たちは言めで言う中国共産党幹部候補の方々だったと思うが、テレビ中継有、新聞記者は居るわ、何も分からない私は中央の椅子に招かれ、隣にはメガネのインテリ風の男性、決して若くはないが、大学生だとは思うが、考えると、中国でいうこういう組織は決して日本のように、自主的なものではなく、共産党によって組織されたものであると思うわれるので今でもこの場面はぞっとする(怖くてではなく、何も知らずに出た自分に)。
そうこのテレビ中継を見て「あっシャオリンが来ている!」と、国貿足の老ヤオや他の団員たちが見てくれていたのである。ニュースに出たようである。そんな事とは知らず、もちろんあれから手紙とかいわゆる文通は数人とは交わしたが何せつたない中国語での文章、細かいことは抜きにして、中国へ行くことは伝えたがいつどこで、などとは私自身も分からなかった。北京から大連へそして船で青島へ、南京へ、蘇州へ、そして上海と2週間の旅である。この時の仲間たちは日本に居るのであるが、又後で数名が登場してくる。これまでの人生本当に多くの方と知り合いまためぐり合い、だからこそ、今の仕事にたどり着いたのではないかと、思う、
話を続けて、上海で、「あなたは残りなさい、北京で人が待っている」と言われた。もちろん日程変更では費用も発生するし、、、でも夏休みだし、、、自分の意見は言えなかった、それ位なるがままに、再度1人北京へ戻った。そこに待っていたのは老ヤオと、コックさん、それに知った顔、皆で抱き合い喜び食事をして、「さあ北京で何がしたい、どこへでも連れて行ってあげるよ」と、「紅旗」という当時の最高級車に乗せられ、北京市内を走った。通訳として中国旅行社の斎さん、(なんと今では築地の仲買人)そして老ヤオ、2人に囲まれ、あこがれの団員とも会え(かっこいい中国人団員)3日間、さて、私が行ったところは、というと、「北京大学」、そこしか行きたいところはなかったのである。長城も故宮も天壇も、みんなすでに見学済み、よって途中から斎さんと2人で、車を自由に使っての観光旅行、日本語ができるので、いろいろと話をした。北海公園の池で、「ボートに乗りたい」というと、ためらうので「どうして?」と聞くと北京では、この公園では2人でボートに乗るとそれは公認のカップルだということを皆に公言している、というサインらしい。
一応斎さんは遠慮したが、お願いして一緒にボートに乗る。のちに彼は自分の彼女を紹介してくれ、結婚、しかし日本へ留学に来て彼女とは離婚、そしてアルバイトでなんと築地市場でバイト、そこの大将に見そめられ、責任者になり、築地関係者の娘と結婚、今は日本籍になり幸せに暮らしている。そういえば、「うに、いくら」専門なので、一度築地でおごってもらった。ものすごい量の大きい「うに」が出てきて、なんでも朝、「友人を連れてくる」とその日の一番良いものをそのお店に届けておいたそうである。先にも後にもあんな「うに・いくら」は初めてである。
ということで本当にどこに「縁」があるか分からない、この初めての中国旅行から戻り、今度は自分自身の就職問題が待っているのである。
幸い、例により華僑総会関係では知り合いがいたので、それこそ選ばなければ、何とかなったとは思うが、どうしても先の「恩返し」が離れない。どうしたら「中国」に恩返しができるか、私の出した結論は「観光」である。
当時の中国は本当に人民服を着て、スイカの皮は食べ終わると、道端に投げ、それを郊外から来たスイカ売りの馬(ロバ)が食べ、車より人が優先、信号無視、ハエはたかり、唾を吐く、最初見た時にはショックである。恋い焦がれた中国、こんなはずではなかった。毛沢東語録にあるような、理想的な社会主義の国だと思った。少なくともそれに向かって頑張っていると思った。でも街は汚れ、貧しかった。そんな遅れた中国に何とかして、近代的に、なんて、今は口が裂けても言えないが、当時私は、どうしたら中国にお金を稼いでもらうか、外貨を獲得できるか、を考えていた。「そうだ!万里の長城がある」「世界中から見に来てもらい、外貨を落としてもらう」「豊かになれる」なんて書くのも恥ずかしいが純粋に「観光」だと思ったのである。環境産業こそが損得抜きで一番手っ取り早く、その国を豊かにするのではないかと真剣に考えた。大学4年生の時、東京の中国通信社という中国系の大きい報道機関の面接を受けた。その時が初めての東京、何が何だかわからずただ、東京駅から事務との往復のみ、でも、島根の人間、関西より東にはいけないと、東京へは行けないと思った。これ以上、自分自身の行動範囲に責任が持てなかった。これも一つの選択、人生変わっていたことだろう。

 エッセイ L−163  随 筆 ⑥

2013年08月30日 

さて、その時に神戸の陳さんという一人の華僑が、例により私の叔母の友人で、「旅行社をやりたいけどどう?」と言ってきた。その時はまだ会社自体存在しなかった。その方は、いわゆる当時の学生運動とか、又華僑の世界では名の知れたすご腕活動家なので、当時も名前と顔は知っていた。できてもいない会社への就職、両親は反対したがこの時はすでに娘は遠いところに行っていた。島根に帰る度、世間に出ていく雰囲気を漂わせる娘を島根の田舎で中華料理店を営む夫婦には「好きにしなさい」としかアドバイスできなかったに違いない。また弟たちは姉のように自分も島根を出たいとか、いとこでさえも少しは私にあこがれるようになっていたかもしれない、結果として長男以外は皆東京に居るし、長男も先の神戸同文学校にて勤務、なんだか穏当に「縁」つながりだ。
この旅行社のちに「友誼旅行社」となって私の中国への観光業への就職が始まる。
この旅行社は、当時の「青年連合会」とのつながりで、始まったばかりの中国との民間交流ラインとして、なかなか忙しい日々を送った。観光だけでなく、交流、つまり「あれがしたい」「これがしたい」「これを見たい」「これをこうしたい」などと、観光以外の目的で中国と折衝、交流したい時にはうってつけの旅行社である。例えば、「アリスのコンサート」「カブトガニの生体研究」「内モンゴルへの旅」など、一般には行けないこと、できないことも、中国側の青年連合会、青年団組織を通じて、危ないこと以外はほぼ許可が下りるようになっていた。それも元華僑の当時青年団所属の王先生(のちの文化参事官)からの援助があったからである。(今でもこの組織の名は良く出ている)
よって私がこの友誼旅行社に在籍していた期間もまた、すごい方々と、一緒に旅をさせていただいた。民族博物館の梅棹貞夫先生、一緒に奥様と数人で内モンゴルへ、○○というところに住んでいたので、ぜひ行きたい、と、しかし当時は、ここに軍事関係施設があり、行くことはできなかった。モンゴルへ道中、列車でその駅を通る時がちょうど真夜中、お二人で窓からずっと外を見ていらした。のちに目が悪くなられ、私は新聞に載る様々な記事を見る度に、当時のお二人の様子を思い出す。また、カブトガニについては、なんと中国は今でもこの天然記念物を食べているのである。その当時の研究者のびっくり度はすごいものである。今でも私が行く「舟山」では店先の盥の中に、カブトガニが売られている。さすがに食べようとは思わないが、食べた人によると、身は少なく、しゃぶっているだけ、との事、それにしても、「蟹」の価値観は日本と中国は大きく違う。日本では北海道の毛ガニを代表として、大きい身のあるものが喜ばれるが中国ではなんといっても「上海ガニ」。そのブランドまで確立され、その飼育方法が季節になるとテレビ番組になり、中国の裕福層は、その飼育施設迄行き、その現地で食べるのである。もちろん何回か食べたが、小さく、中の身は少しだけ、むいて食べるというより、吸い込む感じ?メスの蟹の卵はおいしいが決して北海道の方が劣るとは思わない、なんだか愕かされて居るよう、ある時に1人3000円で追加料金で、上海蟹を食したことがあるが、ある方が「こりゃ日本でいうサワ蟹じゃ、どこにでもおるわ!」と、その値段と小さいことにご立腹、「リンさん、わしのところに来たらいっぱいたべさせてやる」と。のちに、本当にその方は近くの池?でとって、ゆでて、食べさせてくれた。これが同じ蟹か、とそれ以来、積極的には食べなくなり、逆に日本へ来た中国人には、北海道の蟹を食べてもらうようにしている。絶対この方がおいしいと思うが、さて、、でも卵と身を使った料理はおいしいですよ、はい!。
まあ、こんな風に私のこれまでの旅行業は、こうしてあらゆる層の方々と、子供からお年寄り、学生、大学教授、政府関係者スポーツ関係など、ありとあらゆる分野の方々と知り合いお世話させていただき、出会うこととなった。
この中に「ラボ」があるのである。
友誼旅行社で、いろいろと中国とかかわり、その中で仕事以外で私の人生を変えたのは、一番、主人との出会いである。少しだけ話そう。
思えば、初めて会ってからのひとめぼれという物かもしれない、わずか10日間の旅行中、帰るころには次も絶対に会いたい、又、会う約束をしているのである。衝撃的な出会いで阿多。しかし、最初は、何のことはなく、むしろもう一人の通訳、王さんの方が気になっていたのである。王さん、もちろん主人も知っているが、背が高く、ハンサム(今はイケメン?)本当に私はポーッとしていたのである。王さんにも、「この子は自分に気があるな!」と分かっていたと思う。私はその時に「服」をプレゼントしたのだから、、。当時はもう人民服ではなく、しかしあまり派手な洋服はできず、背広もまだ、という感じだったので、紺色のジャンバーをプレゼントした。するとものすごく気に入ってくれて、大いに喜んでくれたのである。その隣に、今の主人、王さんと私は顔見知りの数回の仕事経験があるが主人とは初めて。この時は島根大学の文学部のゼミの旅行で、中国の南の方、南京、鎮江、蘇州、杭州などを回るツアーで、大学の先生が引率、この時は私もまだ若いし、(20代)和気あいあいと皆で楽しく旅行をしていた。また話すとこの時に、大阪大学の女子学生も参加しており、なんとその方が、日本弁護士界会長の故中坊公平さんのお嬢さん、このことは後で分かったのだが、美人ではつらつとして、いるだけで目立つ女性であった。まあ、皆で楽しくしゃべっていたのだが、列車の旅で、皆うたたねをしてしまった。私と主人がただ二人だけ起きていて、そこでおしゃべり、全く日本語は問題なく、むしろ言葉はあちらの方がうまいのだが、若者言葉や、特に占いのネタと、血液型の話をした覚えがある。さすがこれは教科書には載っていないので、熱心に聞いてくれ、また中国の話など、3時間位だったが、話が尽きることはなかった。もっと話がしたいと、夜は、部屋の電話で、何かしらきっかけを作り、庭を隔ててあちらに見える部屋で、向かい合い、話し合った。その時の決め手は「中国は眠れる獅子である。必ず立ち上がる時が来る。その時に役に立つ人間になりたい」と語ったのである。自分の国のことをこんな風に考え実行しようと思う人がいるなんて、目からうろこだった。少なくとも今まで出会った人から日本をどうしようなんて聞いたことなかった、衝撃的な言葉を聞き、もちろん中国に恩返しをと、忘れているわけではなかったので、「私も!」と思わず自分がジャンヌダルクになったかのように、「一緒に中国を良くしたい」と思ったのである。今では本当におこがましい、書くのもはばかられるが若いということはこういうことなのである。「夢」「希望」なんて、今は「現実」に押しつぶされることが分かっているので、あまり自分自身では使わない言葉だが、私はこの時に信じたのである。「きっと中国は良くなる」と。もちろんそれ以降の中国は経済とともに、発展し、又世界も変化し、私も歳を取った。今は懐かしい思い出である。
さてそんなことで二人の間は、狭くなっていくのだがネタを明かせば、この時に交わした手紙は100通を下らない、日本と中国、毎日のように手紙を書き、送っていたのである。この時この人がどんな人かも分からず、あの一言で、私は結婚したいと決めたのである。「自分のことは書くな!」と禁止されているので今回は書かないがこれもまた一大ロマンス物語なのである。
まあ、それで結婚し、日本に来て、東京と神戸、友誼旅行社との遠距離の生活になってしまった。
生活費もかかるので、私は5年務めた友誼旅行社を退職し、東京の「コム」という旅行会社へ就職したのである。
ここでも又、主人が、先に述べた「青年連合会」の関係者で当時日本大使館の文化参事官だった王先生に紹介されての就職だったので、そのまますぐに「中国への友好の船」という大きい仕事に就き、東京へ来たばかりなのに、これまたいろいろな方と出会うことになるのである。

 エッセイ L−163  随 筆 ⑦

2013年08月30日 

ここで、しばらく東京での旅行社の添乗員としての仕事で、忙しくなるが、主人も同じく色々とあり、要するに我々二人はかなり「中国人」としては当時優遇されていたのである、それは、苦労もせず就職し、各界各層の方に、「中国」を代表するかのように重宝していただき、それはそれは忙しくも充実した日々であった。
しかし1989年、天安門事件があったことはご存じあろうか、中国の民主化運動の1つの出来事ではあるが、私たちにとっては1つの曲がり角だったのである。天安門広場を戦車が封じ、その前に一人の若者が行かせないように立ち、お互いに道を譲らず、あの時の二人はどんな気持ちだったのか、その映像は大きく世界全土に放映された。しかし北京では放映されず、当時新疆自治区に居たお客様によると、なぜか早く日本へ帰るように言われ、途中でツアーを中断して、北京経由で帰国したが、北京に到着すると、大使館の方がバスに乗り込み、一緒に空港へ行ったという話を聞いた。それだけ緊迫していたのだろう、その後、中国へ渡航自粛勧告が出て、中国へ観光する人は居なくなったのである。「中国は怖い」と何度聞いただろうか、でもいつも思う、「その国には13億の人間が住んでいて、対岸の火事のように、言うだけで何も被害の無い我々がそんな言葉で片付けて良いのだろうか」と。今でもことが起こると私は、中国の友人はじめ知り合いを思う、そしてそこに住んでいる人たちを、そこから動けない人たちを、
つまり天安門事件は私から一時的に「仕事」を奪ったのである。と同時に、だれも行かなくなった中国、ある大手中国専門の旅行社も倒産し、仲間も辞めていった。そんなとき、今は亡き中野区区長さんよりご協力頂き、「在日中国芸術絵画展覧会」を中野区の区民ホールにて開催することになり、東京に居る中国人芸術家達を集め、その作品展をすることになった。当時は中国の有名芸術家の子弟、つまり2代目が多く日本に来ていたので、皆そういう意味では知り合いの仲間、しかしながら言葉の問題やあくまで芸術家なので、いわゆる交渉ごとはできなかった。そこに白羽の矢が立ったのが私、天安門事件により「暇」だった分、彼らの手助けと、大いに日本側と中国人留学生をまとめ、この展覧会は大成功を収めるのである。ここで知り合ったのが、今回やっと「ラボ」との出会いのきっかけとなった「李庚」さんなのである。彼は中国人画家「李可染」の何番目かの子供で、現在京都芸術大学にて教鞭をとっているはずである。彼の父、「李可染」は日本でいう人間国宝級の画家でその画はまさに中国を代表する大家である。そんな、彼なので、絵に対する1枚1枚の真剣さはものすごいものである。時には抽象画、ある時には具象画、と、独特の雰囲気を持ち、一目で「うまいな!」と思う絵である。(素人なのにごめんなさい)その他多くの画家がいたが私の見る目は結構当たっており、おの時に50名位の画家の作品を取り扱ったが、「これいい!」と思われるものは、さすがその後何らかの形で一人前の画家として自立しているし、海外、遠くはこのアメリカで成功した画家もいる、結構この時の画家達からは「専属のマネージャーになってほしい」と、言われていた。中には真剣に気に入られ、しょっちゅう電話でのやり取りや、自身の買い物迄一緒に行き、「カシミヤのセター」をその場で10着以上、(高かった)購入した若い画家もいる。彼女のお父さんも国宝級の画家、又この女性画家もすごくうまく、当時バブルでか、実力でか、1枚の絵が数百万円もした。実際に売れるのである。基本わがままな画家は嫌いなので以後電話かかってきても無視したが、現在もものすごく成功しているらしい。
李庚さんはあくまで謙虚で、私に「ラボという会社からの依頼で絵を描いたので、見に来ないか」というお誘いだった。私は先に言ったように李庚さんの絵は好きだったので、新宿のラボ国際交流センター本社での展示会へ一緒に行った。
その時に名刺を交わしたのが、ラボの「高橋」さんである。自己紹介から始まり、「中国は?」と聞かれ、今まで述べた自分自身の日本生まれ、日本育ち、中国関係の仕事をしている、という簡単な挨拶とともに、「では中国ではホームステイができますか」と聞かれたのである。当時私は青年連合会という大きい組織とも仕事上付き合っていたが、何より在日中国大使館には王先生がいる、又そばには李庚さんがいる、李庚さんの「北京に居る娘の通っている学校は日本語をやっているよ」との一言に、「じゃ聞いてみます」と、返事、後日、大使館の王参事官に、「中国でホームステイはできますか?」と電話で聞き、「ホームステイ?それは何?ああ、そういうことか、調べてみないと!」と、日本語で返事をくれた。この王先生も華僑で若いころ、中国へ帰った人で、それから今の地位までの登り詰め、もちろん日本語は達者、神戸の中華同文学校出身である。ラボの方と、この王先生を訪ね、きっかけを作っていただいたのが始まりである。
まずは行ってみようと、早速ラボの幹部とともに、中国へ行き、ホームステイの交渉などする。しかしこのころはもちろん日本でも中国語を勉強しているましてや学生は全くいない、(大学が数校のみ)、中国でも日本語を勉強しているのは大学である。ましてやラボは同じ年代の子供との交流なので中学生、高校生と交流したい、そして何より当時は、「ホームステイ」という中国語の言葉がなかった。それなに?と聞き返され、「つまり、子供が同じ年頃の子供の家に寝泊まりする事、」「言葉はどうするの!」「英語中国語、日本語」「どうして泊まるのか?」「学校訪問と家庭訪問ではだめなのか」「なぜ宿泊が必要なのか」「費用はどうするのか」などとあらゆる質問が出てきた。ラボとは何ぞや、学校訪問でもなく、ただただ「ホームステイ」ということを説明したが、私でも対処できない「ラボ」特有の考え方があり、それを理解、又訳すのに、大いに苦労した。たとえば、「なぜ泊まるのが良いことか?」「寝食を共にすると相手が分かる」「親はどこに寝るんだ」「子供は一人で外国へ来て大丈夫か」「中国には余分の1部屋がある家は少ない」「どうしてきれいなホテルがあるのに」「きれいなホテルがあり日本人はお金持ちだからそこに泊まればよいではないか」「貧しい中国人を見て優越感を感じるのか」「何かあったら誰が責任を取るのか」「親は許しているのか」目を閉じて思い出すだけでもこんなにある。
とにかく、この交流はことばで説明しても理解されなかったのである。今でこそ中国は経済発展とともに、「お金持ち」がいて大きいマンションがあり、車もあるいわゆる裕福層が増えているが、ラボは決して「裕福層」にホームステイを頼んでいる訳でもなく、きれいなマンションに住みたいわけでもなかった。普通の家庭があくまでも希望だった。しかし、ホームステイが始まってからも、こんなことが有った。「人のいない部屋」が用意されたのであった。しかも豪華、しかも、買ったばかりの部屋、家具もなく、家は大きく、トイレは水洗、一見豪華ではあるが、だれも住んでいないマンションがそのホストの自慢の買ったばかりのマンション、「さあ自由に使っていいよ!」と。それが月壇中学校の先生のお宅である。ラボチュターが出した「大人も泊まりたい」の要望を満たした結論だったのである。そのくらいの勘違いも良いところで、この最初の10年間はまずラボとホームステイが理解されるまでの時間だったと思う。毎年毎年月壇中学の生徒とラボ参加者の子供が代わり、自分の家は何、何、した、というのが伝達事項になっていたようである。このなに、何、は、どこへ連れて行ったかがポイントになるのである。精神論より実践論というか、先生でさえ、このような有様、本当にラボの精神は理解されるのか、それから徐々には、理解されるようになったが、今年の6月、改めて新しい担当の先生、安先生より「どうしてホームステイすることになったの?」がそれまでの大いなる結論である。誰も文字でこの交流をかききれなかったのである。つまりこの交流はすべて彼ら自身のものであり、一つ一つ違う、何か、だったのである。
この25年、毎年子供は変わりやっと先生に理解されるようになると新しい担当の先生、でも今はそれが当時の時代にあってきて長く続いた一つの要素であったと、思うのである。
ある年に「中国人の学生も日本へ行けないか」という申し出があった。当時は、人民元のレートも良くない、1か月の給料は3万円くらい、やはり毎年春3月に来る学生を見て中国人も日本へ行きたいと思うのは山々である、まずは校長先生から来てください、と、199○年長年の名物校長、呂世華校長が来日した。このころから、ラボの国際交流が理解され始めたといっていいと思う。毎回、説明はするものの、中国と日本の文化格差は大きく、同じ漢字、同じ東洋人としてみてもあまりに差があるのである。
いったん日本を見てラボの日々の活動を見たら、それからは理解できるのである。まさに「百聞は一見にしかず」である。
呂校長の来日には私も付き添い、説明して東京、長野ラボキャンプ、富士山、など観光と見学を兼ねて、日本国内を回る。ちょうどそのころから「いわゆる日本ブーム」というか、日中間の経済協力が盛んになり、日本語の教育が改めてクローズアップされ、日本中の学校がこの月壇中学を訪問し、交流するようになった。一番多い時で年間3000人がこの学校を訪問したというからすごいものだ。ブームというのは面白い。ラボ以外でも、仕事で北京へ行くことも多々あったが、その都度、月壇中学へ行くと、日本中の中学、高校からの見学者、毎日のように歓迎会、服装もジャージから、制服へ、しかも日本風で、学校自体も併せて変化していった時期であった。最初は日本へ行くのはラボとの交流だけだったが、徐々に月壇の他の学生たちにもそのチャンスが訪れ、ある意味お金が有れば、だれもかれもが、日本へ行く時代になった、1999年ころである。又、中国も経済発展とともに、裕福層が増え、この月壇では、日本語も学べるし、進学も推薦枠があるし、就職もチャンスがあるし、内外ともに、月壇中学は有名な日本語を教育する学校としてクローズアップ―されていったのである。広いお家に住まなくても、ベットは1つでも、でも、家族がいれば、一緒に話ができれば、なんていうラボの目指したものは、一昔前かもしれないが、当時は、毎年参加する子も違うし、ステイする子も違う、希望者が多いので、部屋にゆとりのある子供、そして何より成績優秀な子供、車が確保できる子供(休みにどこかへドライブというのが流行りだった)、などあらゆる選択をし、選ばれた子供の家にステイする事は、今現在でもしょうがないことである。
さてこのように右往左往しながらの国際交流であるがまさに日中間のいわゆるブームに乗って、増えると思いきや、はたまたこの交流そんなにうまくはいかないのである。

 エッセイ L−163  随 筆 ⑦

2013年08月30日 

ある年は杭州というところで、日本人の修学旅行生の乗った列車が脱線事故、ちょうどその時に我々も上海に居て、日本のテレビ局からの取材を受けた、子供たちは何も知らず「楽しくやっています」と答え、その時、日本ではこの事故が大騒ぎとなり多くの修学旅行生が、中国行を断念したのである。我々はすでに現地に行っていたので、何も知らず、と言っても残り僅かな時間だったのでそのままツアーは催行、無事次の日帰国したのである。
又ある時は鳥インフルエンザ、鳥肉を食べなきゃ良い、などと、言っても日本では大騒ぎ、「もし」、「万が一」、と、いろいろな声が事務局本部に届くらしい。またある時は反日問題、これも又「子供たちには関係ないことだし、そのような危険な場所には近づかない」などと表面的には言うが、日本国内の世論とともに、世間の風は冷たい。餃子事件の時もそうだった。「うちの子が、毒入りの食事を食べたら」など本気で言ってはいないと思うが、それにも丁寧に対処しなければならない。幸いにもラボの組織では参加者は一度テュターによって「行く、行かない」が選択される。親と本人と話し合い、しかしながらこの中国交流、自分から進んで「行きたい」という子は毎年参加者の半分くらいかと想像する。北米交流に比べると期間は短いし、行きやすいとは思うのだが、何より「中国」ブランドがまったく最近では低下し、参加者募集にも、いわゆる危機がもたらされている。しかしながらこれを支えて今日まで来ているのは、テュター、先輩、そして双方の子供たちである。
これまで参加した子供は、何がしら「感激した思い」をもって帰っている事と思う。それは何か、「異文化体験」「友達」である。
中国というイメージから、自分が体験した現地での出来事、また何より、この中国人の学生はそれこそ選ばれている学生である、最近では昔のように超エリート候補ではないが、やはり日本語がうまい、日本にあこがれている子が手を挙げている。又年齢にも配慮し、小さい子は少し大きい子、又高校生は、少し小さい中学生、など、いわゆる「お世話」ができる子をあてがっている。お世話というが、この場合は「通訳」である。何せ「英語」の場合は、片言でも習ったこともあるし、耳にもなじみがあるが、「中国語」は「シエシエ」と「ニーハオ」位しか耳慣れないだろう。ましてや3泊も預かるお母さんたちにとっては同じ顔をした異邦人「何がほしいの?」「何したい」だけでも大変なことである。又、中国は1人子である。ある意味、どんな子が来るか、どうしようか、オロオロと、本当に親は試行錯誤である。その点、アメリカは期間も長く、「勝手にやって」というスタイル、いいか悪いかは別にしてやはり東洋人は、こういう場合、至れり尽くせりの思いがある。
ある日、女の子が「お母さんがズボンを買ってくれた」と言って中国のズボンをはいていた。冬(3月)でも足をむき出してスカートで居る女の子を見て、どうしてもかわいそうだと思ったらしい、彼女には最新のファッションだったに違いない、いわゆる生足、ルーズソックスの時代の話、そこでそのルーズソックスをプレゼント、瞬く間に、北京で(一部)ルーズソックスが流行したらしい。私は絶対火をつけたのはラボっ子だと思っている。又、髪につける「ヘアーピース」をプレゼントした子もいた。この2つのプレゼントは私にはまったく発想がわかなかった。彼女たちに言ったのは「プレゼントは自分がもらってうれしいもの、など考えて!」と常々言っている。出発前には事前に説明会などを行うのだが一番多い質問がこの「プレゼント」である。よって私が説明会で「カレンダーとか、音楽CDとか」、と言うと、ほとんどの子供がそれを準備する年もあったのでこれ以降、あまり私の口からは言わないのだが、その原因の一つが先の例である。
自由な発想で考えてほしいといつも思っているし、時代は明らかに変化して来ているのである。そして中国を訪れる子供も又どんどん変わってきているのである。
月壇中学との交流が長く継続できた理由の一つとして、月壇中学は特殊な学校、と言うことが上げられる。この月壇中学は、(中国では中学高校合わせて中学というのでここは中学1年から高校3年までの6年間教育、12歳から18歳までの学生が通う)いわゆる日本語教育を前面に出し、当時としては画期的な学校であった。先に話したように外国語は、大学で学ぶものではあるが一部の大学の付属の学校では他の言語を習うことができた。おりしも、私の主人は、長春(前の新京)で、外国語学校にて日本語を習っていた。当時は英語以外は、ロシア語と日本語が第一言語学科だったのである。歴史的に東北地方は、この言語が多いが当時上海は、フランス語、ドイツ語などもあり、又中国の中央部に行くと、ロシア語などもあったようである。
そのように環境で、北京のど真ん中で「日本語」を選択している学校は、大変珍しいと言える、又この時に、李庚さんのお嬢さんがこの学校に通っていなかったら、さすが大使館でも、知らなかったに違いない。もちろん外国語大学の付属の学校との交流もある、もう一つの交流先、上海外国語大学付属外国語学校である。ここは比較的最初から名は知られ、日本との交流もあったようだ、しかし当時は大学同士の交流が多く、中学高校生は全く考えられなく、その日本語を勉強している学生も少なく10人程度だったとも記憶している。

 エッセイ L−163  随 筆 ⑧

2013年08月30日 

最初に、ホームステイは大変だったが、今ではある思い出がよみ返ってくる。北京の学校を訪問し、1回目は顔合わせ、当然学校訪問だけで終わった。学校の近くの先生のお宅を見せてもらったのは覚えている。まだこのころ呂校長は副校長で、正式の校長は王珊校長、微笑みが絶えないやさしい校長先生だった。その方腕がこの呂校長、どのように、この交流を助けてくれたかというと、まずその頃は「役所」の許可が必要である。外国人を家に宿泊させるというのは、全く想定外だったらしく、月壇中学がある「西城区」に掛け合ってくれた。その為ラボは、この交流以後、常に、「西城区」の外事弁公室、教育委員会、にお付き合いせねばばらないのである。今でこそ、民間交流は、自由にできることが多くなってきたが当時は全く無理、ラボが訪ずれる度、必ず誰かしら出席しての会合と宴会、よって中国式の宴会が毎晩1回、合計、2回は必ず開かれるのである。
これは知る人ぞ知る中国の悪しき習慣、しかし食事を共にするとお互いが分かるし、親密になれるというのは、「ラボ」の交流の一つでもあった、寝食を共にするという発想、その大げさなものがこの宴会、中国人は大いに飲むような印象があるが、歴代の校長は全くお酒は飲めずむしろ女性の先生の方が飲める口、よってこちらもテュターを借り出して宴会に臨む。というか、テュターがその場を盛り上げるのである。やはりラボチュターはなかなかやってくれる。
いつしか、政府関係者も、この交流に力を入れてくれるようになり、それは1にも2にも、この交流が継続してきている事が原因である。人数に関係なく先ほど述べた様々な日中関係があるにも関わらず、ある意味びくともせず、(事務局と私はいつも対策は練っていたが)25年以上も途切れることなく今日に至っている。この月壇中学は、日本から大勢の交流学校数だけでも500校以上だと思うが、ずっと継続できたのはこのラボだけである。原因は、「損得関係なしに、交流できたから?」だと思う。どちらかが何かの利益を受けるとか損を受けるとか、全くその点は、「相互交流とお互いの関係者のボランチィア精神」が大いに存在するからである。ホームステイは、本当にお金では測れないもので、全くのその受け入れ家庭の善意によるものが大きい。もちろんかかった経費的なもの、又学校側にも負担を掛けないように、それなりの金銭の授受はあるにしても、お互いに得たものはそれ以上のものであり、又無形の何物にも代えがたいものなのである。
近年、中国からのホームステイ者が来日する度に、日本での反中感情のやり取りのニュースが報道され、中国側もなかなか出国しにくい状況が続いている。日本では「どうして中国人のパスポート許可が遅いの?」などと言えるが、中国はいまだ共産主義国家である。何かあった時には一斉にその体制が指導権を握るのである。それを悪いと言っている訳ではない、そう思って付き合わなければならない、ということを忘れてはならない。
よく「どうして中国は?」といろいろな批判があるが、中国自体まだまだ日本に比べて劣っているのである。何せ人口は13倍である。日本のように自由に事が動くのは13倍を加味して見守って欲しいと思う。実際、大気汚染だって、偽物が横行している事だって、事故が起こることだって、なんでも日本より13倍も影響があるのである。私は、常に「百聞は一見に如かず」と子供たちに話す。例えば、あの大気汚染の映像は確かに北京のある日の映像で、そこに住んでいる人は大変だと思うが、日本のマスコミの報道の仕方は「日本に飛んで来ると困る」という言い方をしていた。確かに迷惑千万かもしれないが、そこに住んでいる人はそこから逃げられないのである。私たちは蚊帳の外から、「怖い」と言っているのにすぎず、一方的に非難してもしょうがないのである。早く日中関係が良くなり、積極的にお互いに経済協力を推し進め、日本側は逆に日本の進んだシステムなどを売り込むチャンスでもあるし、日本は昔の古い時代の同じような経験があるはずである。どうして、どうやって日本が今のように、環境や生活レベルなど良くなったのか、よくしていったか、を売りこめば良いのである。
経済は、実際、必要があるところにチャンスがあり、仕事があるのである。実際先に述べた私と一緒に中国へ行った華僑青年代表団の話を覚えていらっしゃるだろうか、その時の団員の一人は今日本の東北大学で「環境」について日中間の主要な研究を行っており、(これも新聞報道により知る)又別の一人は共同通信の中国駐在員として北京から報道をしている、数少ない中国語を話せる日中間の良きジャナリストであり、良き友人である。私たちは、少なくとも中国を知る人は、決して今の状況が良いと思っていないし、過去の関係がベストであるとも思っていない。時代に合った付き合い方があるだろうし、ましてや子供たちはこの情報社会でめまぐるしく変化している。よってこのホームステイ交流がいつまで継続できるか、今は毎年の経過を見るだけであるが少なくとも、ラボっ子に言いたい。あなたたちの先輩は頑張ったよ!と。
私は子供の力というのを非常に期待しているし、又信じている。ある学校の先生が「今の学生には寝ているときか食べているときしか信じられない」と言っていた。もちろんその状況などもいろいろとあるが学校からの視点ではなく、家庭からの視点でもなく、先に述べたように「損得、いい悪い、」に関係なく、ラボのチュターという存在が、今の日本の教育にかけているある一部分を補っているとしたら、まさに、この他人でもなく身内でもなく、一人の子供として、客観的に自分の経験からその価値を見いだせる存在なのではないだろうか。
もちろんチュターを持ち上げているわけではなく、又いろいろな方もいるであろうし、一概には言えないが少なくともこれまで25年、私が知り合ったチュターには必ず見習うべきものがあった。

 エッセイ L−163  随 筆 ⑨

2013年08月30日 

次に少し、エピソードを書いてみたい。
北京での出来事、小学5年生で参加したTさんは若干11歳、もちろんそれなりにしっかりはしているが親元から離れるのはもちろん初めて、見送る親御sなにゃチュターからも事前に、「宜しく!」と頼まれていた。ホストは4つ上の中学3年生、おとなしそうな女の子である。夕方彼女の親から電話が入った。「まったくしゃべらないし、ずっと泣いている!」と。「ずっと泣いている?」学校では、そんなそぶりも見せず他のラボっ子と楽しく会話していた。しかし泣いているはずがない、彼女に電話を代わってもらうと、「寂しい、みんなと会いたい、」と、還元にホームシック、とりあえず、「疲れていると思うから今日は顔を洗ってやスンナ菜、明日学校で会えるから」となだめ、その旨お母さんに伝えて、とりあえず事なきを得る。早速、同行の事務局とチュターに報告、あるチュターは、この中国交流は短いし、ホストは日本語をしゃべるし、北米交流参加の前哨戦だね、この交流ができなければ、北米も無理ね、と教えてくれた。言葉より、友達になること、外国人とコミュニケーションをどうやってとるかなど、いくつかの「外国」に対しての準備段階がこの交流だと教えてもらった。もちろんその部分も大きいと思う。
さて、この子に対してチュターは、髪の毛に、かわいいピンを指し、やさしく行ったのである。「あのね、このピンはみんなだよ、泣いているとみんなも悲しいよ、ホストもママも悲しいよ、だから魔法のピンを付けてあげるから、頑張ろう、このピンを付けているとすごくかわいいよ、だからみんな○○ちゃんの事、かわいいな、話したいな、と思うよ、頑張ろうね」と、11歳の子が信じるだろうかと思うような魔法をかけて、この子のホームステイを後押ししたのである。信じられないことに、この子はそれ以後、頑張り、泣かないでステイを終えたのである。なんだか狐につままれたように、2日目に変わったのである。もちろん慣れたとか、疲れも取れたとかいろいろとあると思うが、全く初めて会ったラボっ子に、このように、年齢とその子の雰囲気、又状況に応じて、自在に、言葉を掛けられるというのは、子供の本質を長年見てきて、又経験があるからこそ、できることであると思う。まったくすごいもだ。
又ある時は、厳しく叱ることもある。相手に迷惑を掛けたり、誤解を受けるようなことをした時である。その時は「どこの地区?」「テュターは誰?」と、そのグループとテュターを知っているので、そのテュターの名前を出して「○○先生はそんな事教えてないでしょ!」と一括。親ではできないしかり方、そしてその子は、もちろん自分のテュターに迷惑をかけてもいけないし、もちろん帰ってから知られたら怒られるに決まったいるし、すぐに「すみません」と素直に謝るのである。
全く、この組織は計り知れない力を持っていると思う。テュターにしても、前に述べたが、自分の子供のように、接し、又世の中の常識で子供を導き、育て、学校の先生でもない、親でも親戚でもない、そして、塾の先生とも違う。まったく他人の同じパーチィというだけで、一体感が凄いのである。
ある時に、「発表会」というのを見学したことが有る。ひいては赤ちゃんから大学生まで、この縦社会が、縦組織がすごいと思う。その発表会は自分たちで決めた「お話」を自由自在に捜索して、セリフを英語でしゃべり、又動作を付けてお話を表現するのである。当然自分の役は一つではなく、ある時は孫悟空、ある時は雲、になって部隊を走り回るのである。いわゆる表現力である。海外へ行くと、言葉ができないときには体でいわゆる「ボヂィーラングエージ」が必要になってくる。その練習ではないと思うが、子供には想像力とともに表現力は必要である。
この○○先生のパーティーというのがラビに基本である。「君はどこのパーティ?」と聞くのが挨拶のよう、それから「ああ、あの○○先生のところ、知っている知っている」となるのである。つまりみんな知り合い、なぜかというと、毎年夏と冬に行われる「ラボキャンプ」で知り合ったり、同じ地域であれば一緒にその発表会を大きな施設を借りて行ったり、そして、このように北米交流で引率したりして、何かしら知り合いなのである。まさにこれも強みである。反面「ラボって?」と聞かれるとなかなか知られてはいないが、それこそ有名人なども元ラボっ子、という例もたくさんある。
そんな、訳でラボと25年間、一緒に中国でのホームステイ交流を行ってきたのだが今年の夏やっとラボの大きな存在を占める北米の交流に、スッタフとして参加させてもらった。
この貴重な機会がなければ、このように、ラボのことを振り返る時間もなかっただろうし、又思い出す時間もなかったかと思う。
今や日中間は、隣どうしだけの問題ではなく、うまく付き合うことが世界への影響が大きいのである。わずかな民間交流だが、1年でも長く1人でも多く、お互いに行ききして、見聞を広めこの交流を生かしてほしいものだと思ってこの作文を終わりたいと思う。

                                                       林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−162  in OHIO ホームステイ先&St.James Episcopal Church

2013年08月04日 

   今日は日曜日、教会の日、先週の経験があるので、早速出発、覚えてくれている方もいて、皆さんと気軽に挨拶、中には日本h絵言ったことが有ると、かなり親密に話しかける老人も、皆さん結構きちんとした服装で、おしゃれ!
教会での内容はさておき、ラボっ子のみのりちゃんとも会い、会話が弾む。しかし帰り際、ホストのフローレンスが、だれかと、話をしていて、それから期限が悪い。「帰るよ!」とご主人のロッドさんはまだ話したがっているのに、さっさと車に乗り込み、今にでも帰ろうとしている。雰囲気を察して、フローレンスと、車の中に待機、女性だから何かあったのだろう。帰りの後かたずけもしなく、(ほかの人がしていたが)変な感じ、とりあえず自宅へ到着。すぐに着替えて、パソコンをしている。お昼近くなのに、でもここでは自分でお昼を食べる。冷蔵庫にあるものを、まあ、パンに、ハムをはさみ、野菜を少し、朝の残ったコーヒと、それをもって好きな場所に座り、お昼ご飯とする。簡単。しかし今日は雰囲気が重いので、「何時にピクニック?」と会話を交わすつもりで聞くと、{朝は2時と言っていたので、2時のつもりで聞いたら、「書いてある通知の紙がない」との事、事務局へ電話してコールバックの電話で、「5時から」と、、、アチャーまた頭に来ることやらせてしまった。昨日から今日の2時と言い続けていたのに、間違ってしまった。また、気を悪くさせることが出てしまった。ロッドさんは少し、「5時ね!」と皮肉っぽく言ったのがまた、ひっかっかってしまった。「やばい!」と、私は2階へ上がり、「出かけてくる、3時ころ、昼ごはんは自分で食べるから、心配しないで!」と、外出。実は昨日「ウエンデーズのハンバーガー屋さんを近くに見つけそこで無料WI-FIを見つけ、日本へラインをしたのだった。それが有ったのでこれは良い機会と、出かけ、今日はその横に、「チニーズレストラン」があるのを確認していた。久しぶりに食べたいと、そこを目指していく。午後1時なのに、だれもお客は居ない、どうやら、テイクアウトまたはデリバリのお店のよう!「ラーメン」「麻婆豆腐」「ビール」と頼むと、あいにくビールはなし、アメリカに来てこの酒豪の私がまったく飲んでいない、これは奇跡である。このことは日本に居る主人への最大の大ニュースである。とにかく後の2つを頼むと「Too,big ,you not to eat」と言われ仕方なくマーボー豆腐をキャンセル、又出てきた「ラーメン」はいわゆる焼きそばで、「ラーメン」は、[Soup Nooodle]になるのだ、つい、やってしまった。そこで、Soupを見ると 酸辛湯があるではないか、早速頼む、なんとこの2つで5ドル、さしづめ500円、安い!さて今日は夕方5時まで、これを書いたり、選択したりするか、幸いラインがつながり、久しぶりの日本の気配、幸せ。                                    林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−161  in OHIO ホームステイ先

2013年08月03日 

  今日は1日何もなし、夕べは大雨が降ったせいか、少し涼しい、夏というのに、アメリカについてからは、ずっと良い天気、ちょうどいい気候、半袖で、少し長いものがほしい感じ、又この編は本当に緑が多く、庭で椅子に腰かけ、空を眺めて、鳥の声を聴き、リスとウサギを見つけては、「写真撮らねば!」と追い掛け回し、本当に和香な日々。外を歩くと誰もが「ハーイ!」と声を掛ける。もう絶対に感じが良い!!日本でも知らない人にあいさつをしなくなったし、中国でも、ないな!!ここでは、本当にご近所なのかどうか、(ラフな恰好だから)まったく違和感なく声を掛けあう。「不思議」
そろそろこの編が分かってきて、散歩も少しづつ遠くへ行くようになった。何せ自分の行きたいところも分からず、車社会なので、徒歩以外は身動きができない。行くところもないが、買い物は大型スーパーへ、週に1度夏2度、備蓄関係はっ地理だし、多分私がいなければ本当に静かな生活を送っている事だろう。
教会の仕事と、決められた組合の仕事(退職軍人の組織のよう)、たまに友達とイングリッシュガーデンのお茶をン身、孫の話と娘の話、本当に優雅な老後生活、そんな人ばかりではないが、少なくともホームステイを引き受けるという、気持ちの余裕が、感じられる。
日々の生活は本当に質素で、ぜいたくはせず、かと言って、嫌いなものは嫌いと主張し、食べ物もまずいと捨てる。(私が作ったものでなく初めて買ったピザがまずく、私にもまずく感じられ、捨てた)料理は細かく、今日はサーモンを焼くのだが、もちろん庭のグリルで、そのうえ、ハーブの木板を中に敷き、その上で、いわゆる「匂い」をつけるために専用で売っている板を載せて、一緒に、焼いているのだ。本当に手間暇かけて、料理を作る。すごい!
作るのは2時間前から準備、食べるのは20分、あっという間に平らげてしまった。おいしいが、味が薄くその匂いとやらは、私にはあまり感じられず、それにお金をかける、ぜいたくさというか、家庭主婦というか、全くもって異次元の世界だった。
さて明日は、いよいよこの地区の子供たちも集まって、ピクニック、何を作って持っていこうか、「ワッフルは?」と言われ、ワッフルなんてデパートでしか売っていないと思っていたのが、「作る」なんて到底私にはできない、お任せしよう。
湯型はホストとお互いにYOU-TOBEを見てげらげら笑い、本当にアメリカではパソコン1人1代、老若男女を問わず活用している。ホストは買い物、ビデオのレンタル、など大いに活用、見習わなくてはならない。とりあえずアンダーソンの写真などメールに送ってもらう。                                                 林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−160  in OHIO ホームステイ先 & 「HALE FARM VILLAGE」

2013年08月02日 

  今日は、ここから1.5時間のドライブへ行く。目的地は、「HALE FARM VILLAGE」、1800年代のアメリカの開拓に成功し他方の家を移動して、いわゆる「民族村」のような、建物と農家の再現により地方の産物を売りまた動物と触れ合い、ピクニック気分で子供たちとの憩いの場である。ホストも初めての場所、古木よき時代の紹介や、オハイオのおおらかな田園風景など、のんびりとしたところ。
ちょうどホストの娘さんのエリザベスの家から30分で、アンダーソンも連れて来てさしづめ、孫と一緒に、という感じ。
それにしてもハイウエイを移動するのは気持ちよい、ドライブ気分で、外を眺め、つくづく、大きい国だなと感じる。
もちろん中国も大きいのだが何せ「人」が多い、建物のあるところは必ず人がいるので、以前に上海の子供たちがホームステイに来た時、季節外れの山のキャンプ場が貸切状態だったので、日本に来て何が一番印象的か、と聞くと、この誰もいないものすごい静かな空間が良かったと言っていた。
そう、アメリカは広いが人口は確か3億人位、このオハイオも大きいが全体的にゆったりとしており、その雰囲気は写真で見ての通り、
このファームで、お昼ご飯ランチを食べ、少し園内を回るが、その中に、アメリカの歴史を語るおじいさんとか居て、ホストは、まさにある時代を生きてきた人なので、話が弾んでいた。どこの国も一緒、お年寄りには、世間話話か、昔話が一番のごちそう、結構盛り上がっていた。
さてアンダーソン君と別れ、一路帰宅へ、途中ドライブインなど立ち寄り、時間を気にせず、帰るだけという気ままなドライブ、[to NEW YORK]とあったので、「行けるの?」と聞くと、ここあら車で、8時間との事、いつか近いうちに行けたら、と、そしてまた、ここに来れたらと強く思う。                                     林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−159  8月01日(木)In OHIO ホームスティ先 

   今日から8月、毎朝今日は何曜日?と聞くのが楽しみ、夜は日本時間にてPCを見ているし、昼は昼でPCを見ているし、いったい日にちの感覚が分からなくなってしまう。
今日も晴、私が来てからはずっとタイミングが良く、夜朝方など家にいるときには「雨」外に出る時間は「晴」、一緒に「ラッキー」と言いながら過ごしている。
テレビは50チャンネル位あり、中に「ハンフリーボーガン」の専用の懐かしのドラマのチャンネルがあり今でも横の部屋でそれを鑑賞、昔のカウボーイの映画、悪い奴と良い奴が決まっていて、美女がいて、さしずめ日本の時代劇?、女性は美しく、映画通ならご存知の方だと思うが、残念ながらその造形には預からず、ただ「美しい」としか言えない。老人夫婦が、テレビを楽しむのは同じだが、一人の俳優の専門チャンネルというのは、これからの日本にもまた、大きい映像の先進的なアメリカならではの事かもしれない。
私のホストのフローレンスは、「花」が大好きで、あらゆるところに「花」の装飾、また花柄の飾り物やシーツ、タオル、しかしながら洋服類はお二人とも地味で、単色系統がお好きのよう、ご主人は、元軍人らしく、軍人のグッズ,T-シャツや、車のプレート、バッグなどにも必ず[AMY]と銘打って有り、本当に律儀な方だとうかがえる。尚、家の中には銃が飾ってあった。本物かどうかは分からないが、、、。                                          林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−158  7月31日(水)In OHIO ホームスティ先 

  今日は、お昼のランチを外でとる。リンダさんという友人と一緒に、「イングリッシュガーデン」のお店に行く。お昼時、年配の女性でいっぱい、今流行しているようである。午後のお茶とランチ、働いているのは男性、これと言って目立つお庭ではないが、ハーブなどが植えてあり、女性好み?と思う。しかし、お庭で食事の後、中の店内へ入ると、英国風の食器の展示兼売り場、いかにも英国風の造りで、写真もいっぱいとる。料金も決して安くなく、1500円から2500円、サンドイッチとお茶、ジャムとかバターとか、小さい入れ物をそのまま出すので余れば持って帰っていた。また残したものも、テイクアウトしていた。
帰りに「オハイオ州の絵ハガキ」ということでショップに立ち寄る。パン、ケーキなどと一緒にレストランと小物ショップセンタ―が兼用であり、にぎわっている。そこで絵葉書と簡単なお土産を買う。{スクビードウのキャンヂィ}
夕食は、私が担当しているので、「焼きそば・手羽先炒め」を作る。まあまあだ!ホストは非常にきれい好きで、あまり油類は使わない。中華はどうしても油を使うので、悪いような、しかしながら、残っている野菜や、この前作ったチキンスープなど処分しなければならないし、またこういうチャンスは思い出として残るので、できるだけうまく作れるようにしたいと思う。ホストは後で、このレシピなど書き込んでいた。
私のホスト、フローレンスは、PCを持っていて、いつも買い物の金額とか、出来事など、何か毎日書き込んでいる。うらやましい。またものも、置いたところが決まっており、全くもってうらやましい性格。家の中は、いつも清潔、ゆっくりと時間を過ごしテイル。
家の前には道路の幅と同じように、芝生が植えてあり、鳥が鳴き、リスが走り、時々ラビットが出現し、庭の花をかじるとせっせと針金で囲いを作り、木には鳥たちの為に水やり場を設け、天気の良い日は、庭に椅子をだし、ゆっくりと、「パズル」をし、、、、本当にこんな生活があったのだと、実感。物語の中?絵本の中?異文化体験というが、実際にこんなに静かな生活を暮しているアメリカの大きさを感じる。
もちろん、外には、労働者もいればストライキの看板を持った人も、いた。画像でしか見たことのない絵図らを実際に見ると自分がタイムマシーンに乗ってきたような感覚がある。今まで何度も海外へ行き、人と触れ合い、仕事もしたが、1人の女性として自由に、何も決められたものもなく、この同じ時間を過ごすという感覚、全く何物にも代え難い贅沢?かもしれない。   林 淑英      

ページTOPに戻る

 エッセイ L−157  7月30日(火)In OHIO ホームスティ先 

  アメリカに来て1週間が経つ。時差ぼけはないが、やはり夜中に目が覚めたり、昼間眠かったりはする。子供たちは大丈夫かと少々心配だが、この解決法は「動く」ことである。何かしていると時間を忘れるので、時差ぼけは、動くことである。
今日は朝からホストの出勤日、一緒に教会へ行き、お手伝い、と言ってもお掃除などは、担当者がいるので、事務を片付けている。私は置いてあるいわゆる教会の備え付けの本や、パンフレットを辞書片手に読んでみる。
聖書のほとんどの言葉が、「ラテン語」からなっており、(語源が)当たり前と思いつつ、この文化が根強く影響を与えているようだし、歴史を感じる。
司祭様も出勤、ボランチィアの方も1名、80歳くらいだと思うが、自分で運転してきているので、改めて、老人パワーはすごいと感じる。聖書の置き方やパンフレットを直し、新しい申込用紙などを置き、司祭さんとお話、教会へ来るご婦人たちは皆、余裕があるミドルクラス以上の様子、代表でしゃべる方は日本と同じ、リーダー格、きっと多大なる寄付をしているだろうなと思わせる、背広姿に大きな体格、本当にすべてが映画を見ているようで、時々自分は、本当にここにいるんだろうかと、錯覚に陥る。
車での移動で、運転できない私は、本当に歯がゆいが、道路は広く、スピードも速くなく、左記程のご婦人でさえ運転できるのだから、と、少しやる気になる。
道路わきに郵便ポストがある。郵便配達が、車から入れやすいように、置いてあるという。合理的。
買い物でも、すべて支払いは、自動であったが、今日は、道の駐車場にある「やおや」にて野菜を購入、トウモロコシ、メロン、ジャガイモ、キュウリ、かなりの量だが、全部で9ドルちょっと、安いなあ。
ホストは、現金を10ドル札2枚くらいしか財布に入れていない。カード社会であろう。
夜は、どうやら豚肉らしい、フリーザーにある豚肉を3つ、水につけて(ビニール袋に入れて)自然解凍をしている。
聞けば、このオハイオは、冬は寒いらしく道路も凍るとの事、よって道路があちらこちら痛んでいるのは水道管関係とか、その為、家庭の食料の備蓄は当たり前となっており、冷蔵庫も大きく、地下室があり、いろいろなものが確保されている。
スーパーでも、あらゆるものがまとめて売っている関係上、洗剤などの日用品もたくさんストックがある。日本では考えられない。
ものはあふれている感があるが、それが当たり前、肉でも魚でも、フリーズしておき、野菜も青物は、すでに切刻んだものを購入、パックに入っており、1週間は大丈夫のようだ。
食事は好みによるが、私のホストは質実剛健タイプ。退役軍人で、若いころ横須賀に住んだことが有るというが、今は、教会のボランチィアと、軍関係の退役者の会などに参加しているようだ。
ちょうどイラク戦争の時、退役したようで、少しだけ参加したか何かで、その記念のプレートなどが飾られており、車のプレートも[AMY]の文字がある。きっと何かの利点があると思う。
ここにきて思うのは、退役した老人夫婦が、つつましやかに余生を送り、金銭的にも問題なく、お互いにパソコンで世間のことを知り、各種テレビを見て懐かしがり、時々友人に電話して、会いに行ったり、なんだかゆったりと理想的に余生を送っているように見える。
この私のホームステイを引き受けたのも、日本にいた事がありまた教会でも、世界平和とか協調性とか、子供の教育とか、いろいろと毎週テーマにて司祭が話しており、自分もリーダーとして、ボランチィアに協力しているのだと思う。
食事の世話なども、大人であれば、勝手に、と思っているのか、あまり気にしていなく、各人が自分の部屋にて食べる雰囲気の日もある。
先週、エリザベスが帰ってきた時に友人一家も参入し、前に作った「餃子」のフリーズしたものとラーメン(麺はうどん)を作り、ふるまう。
おいしいと言ってくれるが、あまり脂っこいものは好きそうでなかったが、やはり料理は辞めようと思ったが、毎日「パン」というのはさすがに飽きるので、何かメニューを考えなければ、、、。                      林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−156  7月29日(月)In OHIO ホームスティ先 

 今日は娘さんのエリザベスが私に会うために帰郷、ここから約1.5時間のレークウッドという町に住んでおり、先月6月4日に男児を生んだばかり、このアンダーソン君に会うことが一番の楽しみで、東京では20年ぶりに「ベビー用品の店」へお土産を買いに出かけた。さすがにアメリカ人なので単に2か月サイズではないと、半年の赤ちゃんのサイズの服を買ったのだが、もろ、正解。
やはり大きい、愛くるしく寝返りも言葉も話せないが、赤ちゃん言葉とそのミルクのにおいが懐かしい。母乳は与えていなく、すべてミルク、また水でも溶けるミルクで、専用の水まで売っているのにはびっくり。
飲み終わった後に、ゲップをさせるのも同じ、この辺は、日本と全く変わらず、彼女は一人で自宅にて子育て、しかし最近家を購入して、その写真を見せてもらったが、約2千万円で、この家の2倍、庭付きで桜の木が3本、ベッドルームが3つ、(写真では)広々としていて、うらやましい限り。
一般的にホームステイを受け入れる家庭は、ミドルクラス以上で、やはり年金や、その他蓄財があり、ボランチィアの要素が大きく、また同じ年頃の親は、夏休みの外国人との交流、主には自分の子供の子育てに良いと考え、名乗りを上げているようである。今回、教会関係者のところにステイしているが、教会での知り合い(会員)のところに1名ステイしている。
またアメリカというか、「教会」がかなり目につくが、すべて同じ宗派、日本でいう真言宗○○派、のように、すべて異なるそうである。外から見ると普通の建物のような、平屋の家に、十字架があるところ、見るからに教会の建物と分かるもの、いろいろとある。
各教会の司祭の人柄、また自分の家族の歴史的なもの、など、こういう点は日本の檀家制度に似ているかもしれないが、世襲制ではなく、教会の司祭の資格に合格しなければ、その教会の司祭になれず、また最近は大学でこの資格を取るようになっているらしく、大学での資格合格者の紹介した雑誌などがある。
話をしていると若者の教会離れも進んでおり、その為に、各種の催し物など、パチィー、寄付を集めるコンサートなど盛んに行われるらしい。(雑誌上で見る)
ホストの娘も、婿さんも、日曜日にミサに行くことはないとの事、クリスマスや誕生祭など大きな行事には必ず教会へ行くがそれ以外の日常のお祈りなどはしないそうである。                              林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−155  7月28日(日) In OHIO ホームスティ先

  ホームステイ4日目、かなりお互いに気心が知れてきて、「1日目はお客様、しかし明日からは家族よ」と言われ、2日が経つ。今日は、教会での出来事で疲れたせいか、または日曜日はご主人がお昼の支度をするのが常なのかはたまた、いつもこうなのか、お昼近くなっても昼ご飯を作る様子がないので、下に降りてみるとすでにお二人分の食事をご主人が作成中、私が来ると、「食べる?」などと言われ、もうどこに何があるかわかっている私は、「自分でする!」と言って、冷蔵庫からパンとハムをだし、それを巻いてサンドイッチにして朝の残ったコーヒをレンジにかけ、二階へ持っていく。
溶け込んだといえば溶け込んだ、雰囲気である。
アメリカでは、そんなに気を使わないし、もちろん私もその方が心地よい。普段のままの家族でいてくれることが何よりである。
またここでは、話を聞き、あまり分からないことでもじっくりと耳を傾け、だんだん耳が慣れてくるようになり、相槌を打てるようになる。普段からこういう仕事をしているので、この点は慣れるのが早い。今日であった男の子と話をしているとき、「ごめんなさい、少ししか分からないの!」というと、「全然わからなかったよ、うまいよ」と言ってくれる。相槌のタイミングと、大体の意味は分かるので、すごく話が難しくなり途中で、話を遮ったので、うまいと思われているのかも、と勘違い。
しかし、これだけではなく、やはり失敗も数々。
出会って、すぐに「明日は博物館へ衣装展を見に行くよ」と言われ「わーうれしい!」とはしゃいでいたのに、次の日「私は出かけるけど、、」と言われ、「行ってらっしゃい、私はここにいるわ」と、ちょうどメールなど見ていたので鵜呑みにして、無視してしまった。彼女はすぐにご主人に[SHUYINGは行かないって]と訴え、再度ご主人が部屋に来て「行かないの、博物館だよ」と再度ゆっくりと声かけてくれる。すぐに思い出し、「ごめんなさいすぐに行くわ」とそのまま普段着で車でホストと2人で出かけたが、なんだか気まずく、「ごめんなさい、忘れていた」と、言い、機嫌は戻ったが、彼女は、出かける服装をしており、私は普段着、おまけに博物館では皆さん、「衣装展」にふさわしく、華やかな服装、全く、申し訳なく、また今後は出かけるときに気を付けることにし、ホストにこれでいい?と聞くことにする。尚、今日の教会は,OK、「素敵よ!」と、言われ、しかし教会はそんなに、フォーマルではなかった。
この展覧会は、[KENT STATE MUSEUM]と言って、この大学の中の博物館で、教会の司祭の服や歴代の貴族の下着の展覧や、プリーツの展覧などが臨時で行われており、この大学の先生が友人で、紹介してくれたそうだ。マギーさんという60代の女性で、中国へも旅行したことがあり、その話で非常に親しみを感じ、夕食は3人で近くの一般的なレストラン、支払いは、彼女と我々で、彼女は、20ドル○○セントだったので、20ドル札と、5ドルしかなく、(大きい紙幣のみ)ホストに1ドルもらい、そのまま21ドルを渡し、チップとしたようだ。ホストはカード支払いだったけどそのままのレシートだったので、チップは、現金の時、ややこしいかな!とも思った。
アメリカでは、現金支払いは非常に少ないようで、私とホストが郵便局へ行った時も彼女は自分のカードにて支払っていたしスーパーでも、カード支払い、またスーパーは、自動支払機が一般で、最初に、カード、多分これは会員カードのポイント制のものだと思うがそれを入れ、品物をバーコードにかざし、読み取り読み上げをして支払うことができる。例えば、グラム、幾ら、というものは1つずつ、バーコードがあり、それを読み取る。重さグラムのバーコードと、品物のバーコードとがついている。
途中で流れているときに、取ろうとすると、音が鳴る、支払いを読み取ってから、品物を備え付けの袋に入れる。本当に、コンピュターの国である。
そういう意味ではこのホストも自分のメールアドレスとPCを持っており、私の部屋にもwi-fiが取り付けていた。
ご主人はリタイアした元軍人で、昔2年ほど横須賀にいたそうである。
現在ではその教会のボランティアとしてご夫婦で、事務、手伝い、また今日のように司祭のおつきの世話係りなど、そのほかはPCにてゲームや、投資(?・銀行の手紙が多いので!)優雅な1日を過ごしている。

この家の周りはまるで軽井沢の別荘のように敷地面積も広く、道路と家の幅が広くそのスペースはすべて「芝生」と大きな木があり、家の周りは好みの庭があり、物語や映画に出てくる優雅な家、という素晴らしい環境で、(かといっておお金持ちでもない・普通?)、鳥の声で目を覚まし、庭の植木をリスが横切り、時々ラビットが花をかじるので、ワイヤーで大事な花を囲み、ガレージがあって、そこには、キャンプ用品用(日本では)のグリルがあり、「焼き物・ステーキや野菜」の時はこのグリルにて家の中を汚さないように、(またその方がおいしい)気軽に使い、まるで毎日がパティーのように感じるのは私だけかもしれない。うらやましがると「日本ではアパートメントだから」とよくご存じで、定年後はこんな、ゆったり雲が流れるのを見たり、リスがいても珍しく思わず、他の家をうらやましがらず、食べたい時に、冷蔵庫からパンを出して、簡単に食べ、そんな生活が目に浮かんできた次第です。

                                                    林 淑英

ページTOPに戻る
エッセイ L−154  7月27日(土) In OHIO ホームスティ先

  収容人数100人位の、のこじんまりした教会へ約40人程が、10時を起点に三々五々集まる。ほとんどが年配者ではあるが、2割くらいが20代~40代、子供は6人、その中にみのりちゃんのホスト一家が来ている。
1割が、運営ボランティアらしく、寄付の袋をもってまわり、また、珈琲、お菓子などのブ-スを作り、皆、歓談の中、司祭が登場して、讃美歌を歌い始まる。
最初に、お祈りがあり、それは、各自の前にある、テーブルに備え付けてある、テキストにも書かれ、歌はすぐに歌える。
ここには、新規の人には、名簿記入が必要だが、ほとんどの方が自分のネームタッグが揃えてあった。讃美歌、代表のあいさつ、聖書を読み上げ、テキストの歌を歌い、誓いのことば、そのあと、子供たちを前に簡単なお話をする。例えば、「a-men」の、指の置き方で、親指は、家族、人差し指は自分がお世話になるすべての人々、中指は政府、Government、薬指は、弱者、小指は自分、というように、真ん中の高い指で、人々と弱者に支えられ、小指の自分が世の中に居て、独立して、家族が見守る、よって、一番外に、自分と家族がいて、世の中を守り、神にそれを誓う、、、、。
解釈は少し違うかもしれないが、それを子供たちに教え、またしばらくこの子たちは地下室の部屋で、ボランティアの方に教えられ、この時間、感謝の言葉を一言紙に書き、それを司祭が発表し、そのご褒美として、「お菓子」をもらえる、という方法で、子供たちに興味を持たせていた。
また毎週、おそらく交代で、子供に、司祭に、お酒(ワイン)と食物(小さいビスケット)を渡す役を与え、司祭の服(?)を着て、私のホストと一緒に、式典の補助をすることになっている。
式典の中に全員であいさつをする場面があったが、今回は[Communication」の話だったと思うので、そのあと周りの人がハグしあう場面があった。「握手とハグと挨拶、言葉がけ」
その後、讃美歌、代表のお礼の言葉などあり、約1.5時間、あっという間のひと時で、これは毎週日曜日の行事、なかなか体験できない出来事だった。                                         林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−153  10月 

  今日で10月も終わりを迎えます。
例年、この10月が1年で一番好きな季節なので、それをじっくりと楽しむ時間もなく、終わってしまったという寂しい思いがしています。
10月は、天高く馬肥ゆる秋、全国的に行楽でも、行事でも、晴れ渡る大空と白い雲、昼間は少し汗ばむ感じで、夜は虫の声を聴く、ゆったりした秋の夜長、そんなイメ-ジの濃い10月でしたが、今年は、こんな感じです。
10月初め、日中間のいざこざに巻き込まれ、まさに「北京好日」と言われる中国北京への渡航が、延期になりました。
楽しみにしていた北京への旅はなくなり、それから10月のツア-、行く、行かない、とありましたが、少人数ながら従来の交流の旅を決行、現地では、心配も吹き飛ぶほどのあっけなさで、無事普陀山と敦煌の旅を終えました。
それからすぐに北海道です。
これも中国行が行先変更となり、男子学生諸君と北海道食べ歩き?の旅。
滞在中には、「初雪」も観測しましたが、天気にも恵まれ、事故もなく、中国も良いけど、北海道も良いな!と感じつつ、青春を謳歌している学生達との旅を楽しみました。
それから、又すぐ懲りずに今度は「九州」です。
父との1年前からの約束の大分別府の旅、大勢の仲間(父の)と共に、九州の秋を楽しみました。ここでも、阿蘇の牧場の肉と関サバなど現地での名物を楽しみ、少しだけこれまで、できなかった親孝行を消化しました。
ここで会社に帰れば良いものを、日頃の貧乏性で、普段お世話になっている九州のお客様のおうちへ、お邪魔虫。
阿蘇の大自然と温泉を堪能、懐かしいお客様たちとの会食、これまた、十分に楽しみ、ここでやっと10月の終わりを迎えます。
もちろんこの紙面では書ききれないほどの思い出と、お陰とたくさん吸収して、明日への活力と、行きたい所ですが、社員からは「お久しぶりです!」と言われ、いったい私はこの10月どうしていたんだと、改めて自分の移動距離にびっくり。
旅行社ならではの移動距離4000km+1000km+1000km 合計6000kmの移動です。(片道)
何事もなく、無事に移動できるこの時代に感謝しつつ、違った意味での10月を楽しみました。お世話になった皆様、ありがとうございました。                                                林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−152  スマホ 

   今、はやりのスマ-トホンですが、ご多分に漏れず、私も今使っているのをお知らせしましたね。
使い放題の、最大限の料金プランというやつです。
と言う事はいくらアプリ(?)とやらを使っても料金は一緒、と思いきや、新しいアプリには有料もあるようです。通信費が無料というか、料金は限度内でも、新聞やその他の情報などの閲覧は、有料!
こんな初歩的な事も、「大丈夫?」と言う感じで毎日恐る恐る使っています。
この前「黒姫高原」へ行く、「ナビシステム」とやらをバスの中で早速使ってみました。
渋滞情報、現在地確認、到着時間など、有りまして、画面をいじり、色々と出てくるのですが、肝心の「私は今どこにいる!」という把握が出来なく、「前方300m左に」とか音で指示され、一番前に居た私は、運転手さんからひんしゅくを買ったようです。
よって、都心の渋滞の中、これも断念。
色々と、駆使して楽しんでいる息子と同じ機種で教えてもらおうと思って買ったのは、大間違い。
今では、このスマホを持っていることの方が苦痛で、息子にも聞けない哀れな結果です。
もう少ししたら、主人の携帯と交換させられるかもしれません。                       林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−151  熊野古道 

 和歌山県の熊野古道へ行きました。
旅行業者としては大変恥ずかしいのですが、「初めて!」です。
来年の下見に行かせて頂いたのですが、これがまた「すごい!」
まず空気が違います。緑の濃さが違います。そして何より静寂の中に生命を感じます。
ものすごく抽象的で申し訳ないですが、私自身もいつも「百聞は一見にしかず」と、中国へ一回行ってみなさい!と子どもたちに話しています。行って感じて見て、食べて、そして「どう??」と、、、。
同じでした。行かないと判りません。
熊野古道の紹介パンフレットも、地元の観光文も、たくさん手元に有ります。でもこの静寂さは、言葉では言えないですね!
この道を、数百年前から「信仰」を信じて歩いてきた古人、
反省も含めて、絶対再びこの地を訪れようと心に決めた所、「来年来るじゃん!」と、言われ、ふと我に返りました。
本当に良い仕事をさせて頂いております。
来年、是非良い日程の修学旅行を作りますね!期待して下さい。                       林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−150  教員免許更新講習 

 大学時代の話です。
島根の田舎から都会へ出るためには、どうしても「中国語」を勉強するという名目が必要でした。そうでなければ、地元の短大にて、少し学歴を付け、地元で就職し、あわよくば結婚、そして地元に残る、というのが親の考えた、私の人生です。
この島根という田舎からでき一つの手段が、「中国語を勉強する」でした。
幸い京都外語大学中国語学部に合格、又これも色々とエピソ-ドは有りますが、とりあえず4年間、まじめに通学しました。大学とアルバイトと、その往復でした。今の息子の「サ-クル活動」なんて夢の夢!(ちょっと皮肉、3つも所属して忙しくしていますので!)
そんな中、「教員課程のコ-ス」を選択していました。
教科は多かったのですが、バイトは夕方からでしたし、大学へ行く事が毎日だった為、取れるものは取ろうと、まあ、友人も良かったのだと思います。4人組で楽しく過ごし、4人共教員免許取得しました。
この4人の内今でも職業的に「中国語」と関わっているのは、私だけだと思いますが、ふとした事で「中国語教員」という新たな話が出てきました。
もちろん本気とか、やるとか、ではなく、自分自身も忘れていたこの免許、気が付くと、有効期限切れの一歩手前です。
そこで、ご協力を仰ぎ、この夏30時間という講義を某大学で受講しました。
100名位の先生たちの中にあって、異質な女性1名、現役の先生方の身近な話とか、抗議の内容の深さとか、未知なる冒険でした。
仕事を忘れ、毎朝早く、そして休憩は1時間、夕方迄、本当に苛酷な時間を過ごしました。
大学を出てからこんなに真面目に論文というか文章を毎回提出したことは有りません。
素人なりに与えられた課題を紐解き、設問に答え、この1週間は、「自分で自分をほめたい」1週間でした。
関係者の先生方には心より感謝申し上げます。
その甲斐有りまして、昨日講習修了証明が送られてきました。
ここにある「教育の最新事情を学ぶ」12時間、「国際化時代の英語~日本における英語教育の現在・過去・未来」18時間、まさに、お疲れ様と言いたい、証明書でした。
「中国語」がうまい方はいっぱいいますが、中国語が出来なかったら、違う人生になっていたと思います。今日本と中国が抱えている数々の問題に、ほんの一滴でも役に立ちたいと思っております。
これから大学へ行く皆さん、もし読んでくれたら、なんでも何がどこでどうなるか、人生判りませんよ!
常に全力で頑張ってください。                                      林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−149  お中元 

  この夏の暑い時期、皆様方から「故郷」の味を送って頂く事が多く大変恐縮しております。
今日は、「玉ねぎ」です。
関西方面では有名ですが淡路島の玉ねぎ、唯一私も「生」でかじれる玉ねぎです。おいしいですよ!!      林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−148  朋遠方より来る 

 李白の詩だったと思いますが、昨日北京より、中学生約30名と先生方が、来日されました。
弊社で行っております北京ホ-ムステイの相手先の学校からの訪問です。いわゆる「修学旅行」でしょうか、校長先生以下、皆さん楽しみに来日です。
校長先生は3度目でしたが、ほかの先生、生徒さんは、皆初めての日本、インタビュ-で日本の印象は?」と聞かれ、ほぼ全員が「空気がきれい、街がきれい」とほめていました。
夏の暑い盛りですが、北京も暑かったせいか、暑さには、あまり驚かず。日本の各地の素晴らしさを口にしていました。
中国も本当に子どもが海外への修学旅行に出かける時代になっていますね。ちなみに旅費は1万2千元位、日本円にして約16万円位でしょうか!
それにしても、普通の人の月収の5倍くらいはすると思いますし、都会と農村の比べはたとえようが有りませんが、なかなかの金額です。
裕福層が広がっているようです。
学校での交流は、得意の「剣道」「茶道」と日本的なものを体験し、又お寺での拝殿、能楽の舞など、日本らしい、交流内容に、中国学生が必死に付いていくような感じです。何せまだ13歳の子が多く、盛りだくさんの内容でした。
日本の子も中国の子も、何か感じてくれたら、と思う1日の交流でした。                   林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−147  鎌倉・江の島② 

  江の島の裏側へ行きました。何度か行ったことのある江の島ですが、「岩屋の洞窟」や、稚児ケ淵方面はいつも「パス!」でしたので今回は初の観光コ-ス(エスカ-にも載りました)、ここかは「恋人コ-ス」というか、デート「古い言葉!」コースらしく、カップルでいっぱいです。まさか自分の息子はいないだろうな!とキョロキョロ、というのは嘘で、理想的に考え「ここで会ったら嬉しいな」という思いの母心ですが、3人で珍道中、あれやこれやと島めぐりです。
公園の中で「大道芸」を行っていました。ジャグリングで日本一になったことのある若者で、ひと時を楽しませて頂き、最後に「お礼」を皆さんが、箱に入れていました。その時に中国人の一行もためらわず入れていた事と、もちろん我々も入れましたが、淡路のお客様が一言「関西でも同じ方の大道芸を見たけど終わりになると皆さ-っと引いていたけどさすが東京はみんな入れるんだね」と、、、。
ウン~!関西と関東はやはり少し違うかも!
なかなか楽しいそして色々と見られた小旅行でした。                           林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−146  鎌倉・江の島① 

 海の日の3連休、どのように過ごされましたか?
私は相変わらず、自宅で何もすることなく、普段のたまっている「掃除・洗濯」の予定でした。
ところが初日、淡路島のお客様から「今渋谷!」との電話、急いで出かけ、二人で昼食と渋谷ヒカリエ(4/26開業)ショッピングです。お相手はうら若き乙女、久しぶりの若い方との渋ブラです。
その後なんと東京での有名スポット「東京大神宮」へ行きました。なんと知る人ぞ知る「恋愛成就」の神様なんだそうです。半信半疑で、飯田橋へ向かうとなんと「女性」ばかり、、、お参りが絶えない感じでした。幸いに「大吉」の占いが出て、ここまで来た甲斐が有ったと、、、私ではなく、、、、お客様が、、、!。
良かった、よかったと言いつつ、「明日鎌倉へ」という約束が出来ていました。
弊社、新入社員も同行で女3人「若い女性2人とお母さん」というシュチュエ-ションにて、いざ鎌倉へ。
東京から近いし、いつも乗る小田急ですし、、、何もこんなに混む時に行かなくても、と自分でも呆れて、ぎゅうぎゅうずめの江ノ電に乗り、「旅」をしました。
神社やお寺、そして日本性豊かなお土産物屋さん巡り、この関東方面の人の多さ、一極集中型の典型的な観光地ですね。
中には海外特に「中国語」も多く聞かれ、さすが「東京」というか、関東圏ですね。地方の特に東北や福島の観光地の方々に、別けてあげたらと思うほど、賑わっていました。                               林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−145  命 

 この所、「命」に付いて、いくつかの報道を目にします。
中学2年生の自殺、5歳児の虐待死、こうやって紙面に書くのも不快感が感じられる出来事です。
2年くらいご無沙汰していましたオ-ストラリアの友人に、本当に偶然に思い立ってメールを書きました。
二人とも、「大学受験生」を抱えていましたので、その結果を聞くのがもどかしく、「大丈夫かな?」と思いつつ、軽く「どうだった?」と聞いた所、「主人が亡くなった」との返事。
愕然です。
息子がオーストラリアにホームステイに行った際には、大変お世話になり、又、我々夫婦が行った際には、ギタ-を弾いて、歓迎してくれ、本当に絵になる夫婦でした。
それから長い闘病生活が続いていたようで、連絡できなかったようです。
涙も枯れるとはこの事です。
同じ世代だけに、身近な「死」がここに有り、何が有ってもおかしくない時代と年齢に突入したのだと実感です。
この6月にもお世話になった岡山のお寺のご住職様の仏前にお参りすることが出来ました。
思えば30年のお付き合いです。
自分の歳も30年経っていたのですが、その死に「お疲れ様でした」と頭を下げました。
これからはどのように生きていくか、も大事ですが、どのように死んでいくか、も課題かと思います。      林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−144  鍵 

  自転車の鍵をかけるのを忘れ、自転車を盗まれてしまいました。毎朝の通勤と夕方の買い物と、私にはなくてはならぬものなので、警察への盗難届け、そして探し回ること1週間、「見つかりました!」
なんと、反対側の駐輪場で、自宅のすぐ近くです。盗んだ人もこの鍵の番号を知っているらしいので、鍵を買い替え、警察への届け出、と、とりあえずこの騒動は収まりました。
そして偶然にも、この事務所のマンションの玄関の鍵も今日から新しくなります。
セキュリティが厳重になっている今日この頃ですが、ドア1枚でも、「鍵」です。少なくともこの事務所の部屋に入るには2つの鍵が必要です。
以前、中国の人が、ズボンに、鍵をいくつもじゃらじゃら言わせて持っていたのを、「鍵有りすぎ!」と冷ややかな目で見ていたのですが、それが現実になりました。
日本もセキュリティ厳重になってきましたね。昨今の事件と言い、カメラと鍵と、自己責任の時代になりました。
弊社もこのマンションの部屋に引っ越したのも、前の事務所は、だれでも入れるビルでしたから、やはり女性だけの会社と言う事で一応、セキュリティの部分、このマンションは玄関に管理人さんもいるし、この渋谷の大都会の中では安全な方かと思います。きっと田舎の方々は今でも鍵はかけていない方が多いとは思いますが、声を掛け合う時代がだんだんと過ぎ、やはり「安全」は自分で確保する時代になりました。お気を付け下さい。                              林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−143 マル住職  

   弊社のお客様で、中国観音霊場会という日本の中国地方のお寺33か寺の歴史ある会が有りますが、この37か寺の16番のお寺、洞春寺のお寺の事です。
ここには、「マル」と言う紀州犬が居まして、メスですが、今や山口を代表する「住職犬」です。(山口/マル住職で検索可)
洞春寺の副住職様のmixiやfacebookで、いつもマルの様子を垣間見ることができますが、今回は、なんと「普陀山団参」の宣伝に一役買ってくれたようです。
ぜひ、宜しくお願いします。                                      林 淑英

http://a4.sphotos.ak.fbcdn.net/hphotos-ak-prn1/s480x480/557058_227197607400575_294885540_n.jpg

ページTOPに戻る

 エッセイ L−142 スマートフォン 

  最近、携帯電話がスマ-トフォンに変わっている気がしませんか?
私の周りでも(と言っても会社と家族ですが)若い人は皆、スマ-トフォンになっていますね!
そこで「遅れてはなるまい!」と、例にもれず、私もスマホに変えました。(今はスマホと言うのだそうです)
所がこれが、又、やっかいで、と言うより使い方が問題なのは重々承知ですが、説明書と言うのが無いのです。初期設定は有りますが、それが終われば、後は自分で「アプリ」と言うものを探して表に出すというか、使えるようにするのです。
しかし貧乏症の為、「ゲ-ムで何万円も使った」とか「変なサイトが入ってきた」とか「法外な料金がかかった!」とか、こんなうわさに耳年寄りの為、又もう一つは、こんなアプリは無駄!と、削除、若い方との感覚の違いが出てしまい、結局なんだか何の為に「スマホ」にしたのか判らなくなりました。
もっぱら使用するのは、「電話」と「メール」のみ、がっくりです。
しかし1回だけ近所のなじみのお店が「何時から?開いているかしら?」と一生懸命検索とやらを駆使し、「5時!」と出て、早めに行って「飲もう!!」と粋がっていくとあいにくその日はお休み!「エッツ-!検索したのに!」と相手に見せ自分の正当性を言うと、さらにスクロ-ルして「定休日」の案内!!!
最後まで見なかった結果、この結末です。
全く、1か月経っても自分の意のままにならない「スマホ」に、毎日苦戦しております。          林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−141 一遍上人 

  一遍上人、ってご存知ですか?鎌倉時代最後の宗派「時宗」の開祖であり、「踊念仏」で有名な御坊様です。縁あってこの一遍上人様をお祭りしている神奈川県藤沢市の遊行寺の関連の学校の仕事をさせて頂いておりますが、この「一遍上人」の映画が出来ました。芸能人の「ウド鈴木」通称ウドちゃん、がその一遍上人になり、歴史的なエピソ-ドも取り入れながら、この一遍上人の物語を紹介しています。踊念仏の謂れにふさわしく、音楽と踊りと、大勢の方が画面いっぱいに踊っている姿は、まさに現代的な映像でした。横浜での放映を終え、今後地方へ伝達されると思いますが、ぜひその節は、ご覧下さい。       林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−140 絵手紙 

 弊社のお客様に、「絵手紙」の先生がいらっしゃいます。岡山のKさんです。2007年の船の企画の際に船内で「絵手紙教室」を開催して頂き、野菜など身近なものを題材に、「とにかく枠いっぱいに描くのよ」と教えて頂きました。私が現役を退いたら真っ先にやりたいのが、この絵手紙です。
京も大きなソラマメを送って頂きました。
弊社のお客様は、本当に隠れた才能の持ち主がいっぱいです。何かお役に立てないかな!といつも思っております。ありがとうございました。                                             林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−139 新入社員 

 4月になりました。桜の花を楽しむと同時に4月は新入学の季節ですね。
弊社も世の中の時節に併せて、1名新入社員を採用しました。
「岩永春子」さんと言います。
この4月にふさわしく、24歳の新人です。
全くの素人ではありますが、採用の決め手は「通訳ガイド試験」合格者です。
弊社の長谷川さんも受かった国家試験です。
最近弊社は、中国からの観光客、又交流のための訪日の方々の仕事が増えつつあります。
大型ツア-、とは行きませんが、大事な訪日団のお手伝いをさせて頂けることも多くなり、どうしても「先」を考えると、今から準備しておく方が良いと判断した訳です。
よって「華林は、もうかっているね!」と言われるのも、恥ずかしいですが、「頑張っている!」と思っていただければ助かります。
当面、何かとご不便おかけしますが、何分長い目で見て頂ければと思います。
尚、当分の間は、「見習い」として電話や、皆様の前に出ることもあると思いますが、何卒宜しくお願い申し上げます。

                                                 林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−138 説明会 

 3月のこの時期、関西と東京で「HS交流」の説明会を行います。基本参加者が対象ですが、興味のある方、又来年参加を予定する方、又保護者の方々など、小さい子供さんから大人まで、お集まりいただき2時間位の説明と、中国語会話などを練習します。
以前に比べて中国のニュ-スは断然多く、小さいいざこざから政治的な事まで、本当に皆さんよく知っておられます。まさにネット社会そのものですね。
ご家族で中国の事興味が有るというお母様がおられ、子どもには、本当の中国を見て来て欲しいとおっしゃっていました。私も常日頃から、あのネットに出てくる「ジコチュウ-」の傲慢な中国人とは程遠い、善良な普通の市民の方々とお付き合いしておりますので、イメ-ジだけでの日本での報道に少々うんざり感もありました。
どちらもすべてではないですが、あまりに極端な例を求め、又マスコミのニュ-スとしては、取り上げやすく判りやすいという事でしょうか。
私はアドバイスとして子供たちに1人お友達を作る事、を進めています。短い時間ではありますが、自分を知ってもらい、相手も良く理解し、そうすることが中国を知る一番早い方法かと思います。その手段がホームステイです。
まだまだ一般的な交流ではありませんが、衣食住を共にすると、色々なことが見えてきます。だから大変だけど「頑張って!」とエ-ルを送りたいのです。この若い時期だからできる、恥ずかしいけど、うまくできなくても許してもらえる、そして、やればできる、そういう言葉を投げかけ、自信を持たせ、励まし、、、、旅行中は、こんなことしかできませんが、毎回色々なドラマが有ります。そしてこの子たちが大きくなるのが目に見えるのです。
たった数日ですが、このカルチャ-ショックと異文化体験と経験、何ものにも代えられないと思います。
ネットで知る中国ではなく、見るだけでなく、会話や体の触れ合いが有ってのこの交流です。
ぜひ、チャンスが有れば行かせてください。この時期だからこそできる青少年体験だと思います。
説明会にお忙しい所、又遠くからもお越しいただき誠にありがとうございました。           林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−137 子育て終了 

 3月になりました。卒業やら進学やら、世の中の母娘さんは大変です。私も例にもれず、卒業式へ行ってきました。
18歳の節目ですね。体育館で見る同級生は、大きい事、背も高く、体の厚みも有り、今どきの発育優良な18歳の男子軍団を垣間見ました。
もう立派な大人ですね!
そして、進学は、と言うと、無事行先が決まりました。
もちろん第1志望校ではないですが、私には大満足の結果です。
受験中、精神的なものからか、又「気胸」になってしまいました。
途中受験をやめての病院行、全くこれでもかと言うほど、心配しました。前回の手術は左、今度は右です。
よりによって受験中に、と、恨んだものですが、そのまま病院へ行かずにいたら、大変な事になっていたようです。
今月に再手術です。
しかし神は見放しませんでした。この病院へ行った次の日からの受験、「合格の神」が微笑んでくれました。
第2志望の「J大学」法学部合格です。
本当にこれ以上何もいらないという、バカ親ぶりの喜びようで、何より「浪人」の文字が消え、「バンザイ!これで自由になれる!」と大喜びです。(私が!)
何が自由!と言われそうですが、これからは、息子には自分で責任を以て行動して頂きます。できれば学費は何とかするので、その他はアルバイトして頂き、より強く1人で生きていくように、言って置きました。
世の中、たくさんの方がそれぞれの大学進学で、苦労されるのが良く判りました。
本当に大変ですが、「合格の神」は絶対に居ますから残りの受験もぜひ気落ちすることなく頑張ってほしいです。
息子は、これで満足して、日々遊んでいます。でも6年間の結果ですので今は大目に見て、大学に入ったら勉強してもらいましょう!(しかし、こう言う時にやはり「神」を使いますね、「仏」ではないですね?)
これで子育て、終了です。                                   林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−136 2月 

この2月には、相次いで、「ホ-ムステイ」の説明会をあちらこちらで開きます。自慢ではないですが、自分のモット-としている事業ですので、自然と熱が入ります。あれもこれもと、つい、お話が長くなるのが欠点ですが、ぜひ弊社でホ-ムステイ交流を行う方には、「楽しんで来て」と、子ども達にアドバイス下さい。色々と考えると「大変な事」なのですが、何より「海外旅行」です。めったに行けません。ぜひ短い期間ではありますが、思い出がたくさん残るような旅をしてほしいと思います。みんな楽しんで来て下さい。                                                林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−135 年賀状 

年賀状の整理は終わりましたか?お年玉くじも、ここ最近、楽しみに番号を探すことも無くなってきました。「もの」を欲しいと思わなくなったから?と思いきや、やはり原因は「歳」でしょうね!
あの3.11以降、何が欲しい、と言っても「もの」ではなく、物以外のものの価値が大きくなって来ております。また年賀状も「書く」と言う行為にも、少々けだるさが残りました。「おめでとう」より「元気です」の普段の言葉の方が大事だと思うようになりました。年に1度ではなく、「お元気ですか」の一言をこまめに書くようにしなければ、と考えております。
弊社からの華林新聞は、年に1度の広告と割り切ってください。そして華林は、今も健在であると、思って下さい。
ご無沙汰ばかりの人生ですが、いつも権者の気持ち忘れず、前を向いていきたいと思っております。       林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−134 2月 

1月下旬から2月は本当に日本列島、大雪で寒い冬でしたね。このエッセイは立春を過ぎて6日に書いていますので、少し、ましな温かさになってきております。
特に、となりの長谷川さんの故郷、新潟三条市は、大雪警報が何度も出て、もちろんご実家の前の道路も大変な事になっているらしく、除雪車を申し込んで徐雪作業をするのだそうです。(前回表記に誤りがございました、お詫び申し上げます。)
わが島根も、さぞ、大雪、と思いきや、今は降っては溶け、あまり積もることはなさそうです。
しかし幼い頃の写真に「かまくら」や「雪だるま」で遊んでいる写真が有ったような、、、やはり気候も年々変わってきているという事でしょうか。
最近の気候と言えば、この東京近辺、しょっちゅう「地震」が有ります。この事務所のマンションも昨年の3.11の影響で大規模な修繕工事を行っています。
いつどこに来るか判らない「災害」合言葉は「自分で守る」です。
ツィッタ-や、携帯、電子掲示板、色々なツ-ルが有りますが、やはり周りの人と助け合い「声」で確認、「行動」で身を守る、人間として基本的な事が一番大事だと思っています。
雪が降っても、春はすぐそこです。受験や新入学、日本には、もうすぐ「春」がやってくるでしょう。     林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−133 来客 

2012年1月26日 

新年を迎え、又中国の旧正月を迎え(1月23日)いよいよ2012年が始まったような感じです。
3月の学生のホ-ムステイ交流もそろそろ動きだし、少しづつエンジンがかかってきました。
さて今年になって2人のお客様です。
お名前は出せませんが、まずお一人目,Sさんとさせていただきます。
NHKのお仕事をなさっていまして、今話題の平清盛のお話、なんと、とっかかりが「宮島・普陀山・モンサンミシェル」です。皆さんはこれらの共通点が判りますか?
実はどれも「宗教の聖地」なのです。そして「島」です。
新年早々、私の源「観音聖地普陀山」の話が来るなんて、本当にびっくりです。詳しくは言えませんが、やはり日本と中国はつながっているのです。平清盛関係のテレビ取材ですが、なんと3月には全国放送だとか、、、。ぜひご案内しますのでご覧ください。今年のNHKは平清盛一色です。

そしてもう一方、仮にFさんとさせてください。
この方とは、京都の本山のあるお寺からのご紹介で、「日本の神社お寺を中国からの仏教関係者に正しくご案内したいけど誰かいませんか?」と言う事で我が社にご紹介が有りました。
現在中国からの観光客のニュ-スが花盛ですが、そう「仏教界」も例外ではありません。
その方々は、北の方の方々なので、私の知り合いのお寺ではなかったのですが、大きいお寺建立の為、日本を視察に来られるという事、そうです、普陀山でも昨年宝陀講寺開眼が有ったように、今や中国は経済発展と共に、「心の問題=宗教」も色々と表に出て広まっております。
中国的なお寺は華やかな、大きい、金色を施した、いわゆる派手なお寺ですが、しっとりとした趣の日本の代表的な禅宗のお寺永平寺は、中国の天童寺を模したものです。今度は日本の伝統的なお寺が中国に建立されるかもしれないというその時に、少しでもお役に立てればと願うのみです。

やっぱり「縁」は有ると思います。皆様にも、是非今年1年良い年になりますようお祈りしております。      林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−132 先輩とセンス 

2012年1月18日 

今年のお正月、私が「姉」と慕う方からお年賀状が届きました。
その名もずばり「王淑英」。
そうです、私の名前と同じなのです。

そもそも、中国は人との「縁」がコミュニケ-ション手段としては非常に重宝されています。
例えば同じ苗字だと同じ家族のようなものに思えるとか、同じ故郷ならより以上に親近感が在るとか、、、
よって何か商談をする際にも、「どこ出身?」とか、その他簡単な話題から共通点を見出し、
そこから親しくなって行く、と言うケースは多々あります。

そんな訳でこの方とも、京都での大学4年間の生活に非常に大きい影響を与えて頂きました。 そのひとつは、「社交性」、大学時代に色々な方々とお会いし、その経験は今の私には非常に役立っていますが、 それもほとんどすべてこの方が一緒に連れて行ってくれたりアドバイス頂いたり、 妹のようにかわいがって頂いた結果です。 いづれこの大学時代の話は、皆さんにお話しする機会があると思いますが、 何より今日は、「センス」の話です。

昨日「黒」の上着に「黒」のパンツ姿の私を見て、隣の方は 「センス無いな!その洋服、何とかしろ!」と、非難諤々、 まあ私もここ最近、着る物も、そこらにあるもので済ませていたので、 返事も出来なく、無言!

京都時代、お姉さんに、 「リンシュ-イン!いい!黒は一番簡単におしゃれが出来る色よ!黒を着たときは1つ明るい色を持ってくるの!全身の洋服の配色は3色以上はダメよ」 と教えられました。
お姉さんはいつも黒を基調に、1つ赤とか青、とか、色を持ってきて、 それに何より「美人」でした。 いつもその周りは、「花」があったように思います。 よって島根の田舎から出てきたばかりの私は、いつもこの方のそばで、陰に隠れ、一緒にお手伝いをし、買い物に付き合っていただき、 又それを当たり前のように、4年間、「妹」のように接してくれたのも、この方です。

よって私の「黒」好きは、この方の影響も大きく、 今でもこの格言をはっきり覚え、実践しているのです。
しかし中身が違いましたかね!

それを着こなせないのが、先の話の続きです。 情けないとは思いますが、この歳になっても、 「お姉さん、もう一度東京に来て!」と 懐かしく思い出した「王淑英」さんでした。

この方は中華書店と言うところで、中国関係の書物など販売していらしゃいました。
今はご結婚の為、苗字は変わりましたが、名前は「淑英」、大切な先輩です。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−131 2012年1月其の② 

2012年1月17日 

新年早々、広島のNHKの方が来られました。「普陀山と宮島・モンサンミシェル」の事で!
「うん?」と思われるかもしれませんが、この3か所に共通は、「聖なる島」です。
今NHKにて「平清盛」が放映されていますね、その関係で、何やらこの3か所が脚光を浴びようとしているらしいのです。
普陀山と言えば、、、そうです。慧咢です。中国4大仏教聖地、観音信仰の普陀洛山です。
これからどのように話が進むか判りませんが、新年早々嬉しい訪問でした。
でもこれも私の願いではありますが、先ほどの個人的願いが先に有ったので、どちらもうまく行くなんて贅沢だと思いますので、出来れば個人の願いを、、、、社長になるかお母さんになるか、やっぱりオフィス華林ですか!祈っていてください。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−130 2012年1月其の① 

2012年01月17日 

  2012年を迎えました。弊社は平成元年創立なので、この会社も今年24年になります。
多くの方々から「HP更新していないね」と言われた昨年、今年は、と思っていたところ、やはり催促の電話、反省しております。
さて、今年初めのエッセイは、「怪我」です。
縁起でもないと言われそうですが、何か悪いことが有ればその代り良い事が来る、と勝手に思っている人ですので、そんなに悪い事ではないな、と思いつつ、少し話します。
新年早々、道端の階段で転び、ひざをすりむき、なんとズボンまで破ってしまいました。転んだ位で、どうってことはないのですが、バンソコウを貼ってもなかなか傷は治らず、おまけにひざなので足を曲げられず、洋服を着る、自転車のペダルを漕ぐ、など生活に支障をきたしております。
ほんの小さいな事故なのですが、以前に比べてそのダメ-ジが大きく回復力の衰えも感じてしまい、この程度の怪我にびっくりです。
よくお年寄りが、転んで骨を折る、なんて聞きますが、「さもありなん」ですね。そういえば母も階段で転んで大腿骨を折り、入院でした。
24年、自分が年を取ったと実感はしたくないのですが、「若い時のように体は動かないよ」と教えてもらったようです。
しかしここからが、私流、自分の考え方ひとつ。
今どうしても「神頼みしたい事」が1つあります。その為、「神様!この怪我と引き換えに私の願いを聞いてください」と、祈っています。(神様・仏様ですが)
皆様はどんなお正月の出来事ですか?
今年も何卒宜しくお願い申し上げます。                                 林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−129 お礼 

2011年09月28日 

9月もあっという間に半ばを過ぎました。カレンダ-はあとわずか3枚、本当に月日の経つのは早いものです。
今回の題名「お礼」は、読んでいただいている方々全員にお礼です。
まず、中国観音霊場会の30周年事業がほぼ間違いなく問題なく終了すると思います。この25日を以て、出雲古代歴史博物館での「観音巡礼」の展示が終わります。最終的には1万6千人を超すことと思いますが、たくさんの方にお越しいただき、仏像はもちろんですが、「中国観音霊場会」と「普陀山」の事、見て頂けたと思うと、感謝でいっぱいです。
そして17日浜田市の多陀寺さんで行われました合同記念法要、たくさんのお参りの方でにぎわいました。あるお寺の方々が、バス2台にてお越しになりました。今まであまり目立たなかったお寺の方々ですが、バスで2台、という事は50名以上、本当に観音霊場会の底力を感じます。ありがたい事です。
同時に、「門戸厄神太鼓」「石見神楽」など花を添えて頂き、「人を喜ばす、人に喜んでもらう」ことが大好きな私には、そのご苦労と、皆様の心意気、感服です。
素晴らしい催しものでした。我故郷「島根県」改めて、「良いものがある」と感じつつ、この9月の2週間楽しませて頂きました。
関係者の皆様には本当に感謝、感謝です。
そして中国普陀山よりお越しの僧侶の方々、中でも「ジョウビンさん」は毎年のように日本に来られていますが、その歴史の中でも楽しい旅ができたと絶賛しておられ、又弊社の長谷川さんの随行をほめていただき、ありがたい事と思っております。
彼女も益々磨きがかかってきております。
そして、何より、このエッセイを読んでいただいている皆様へ感謝です。
吹けば飛ぶような会社ではありますが、何らかのご縁で、弊社、又は私を知った方は、必ずこのエッセイを読んでいただいていることが判りました。
講演を行って頂いた国学院の酒寄先生との食事中、ある出来事をお話したら「どこかで聞いた話だな?」とおっしゃいました。実は、このエッセイに書いた話の内容でした。昔の話と言うか、いくつもあるエッセイの中の1つの話、覚えて頂いたことに対して、又読んでいただいたことにびっくりで、感激でした。感謝申し上げます。
浜田の多陀寺さんでお会いした数々のお客様、本当にお一人お一人に感謝申し上げます。
私を通して、又弊社を通して何らかのご縁で、中国へ行っていただき、又思い出して頂き、旅行業者としての本望です。今後も「島根」の「縁結び」にちなみまして、たくさんの方々とご縁を頂きたいと思います。ありがとうございました。心よりお礼申し上げます。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−128  仕事ばかりで家の事はどうしているの?

2011年09月22日 

これは自問自答のエッセイと言うか、つぶやきです。
今年になり、1か月の半分はどこかに出張しております。特にひどい時は、三分の二、何らかの用事で海外、国内と動き回っております。途中今自分がどこにいるのか、判らなくなってしまう(ちょっとオ-バ-ですが)錯覚もありました。
「これで良いのか!」と自問自答しながら、「家」の事思い出さないようにしています。
ご存じのように、独身ではなく、唯一の自慢「出産」を経験し、息子が一人います。伴いまして旦那さん、もいます。普通の家庭であれば、お母さんが家にいて、お父さんが会社にいて不在気味、でしょうが、全く反対です。自慢感はなく、申し訳ないと思っていますが、そう思うと、「へなへな!」としぼんでしまいそうなので、仕事中は、思い出さないようにしています。
洗濯は?食事は?掃除は?考え出すと止まりません。そこで電話を掛けるとケンもホロロ、「大丈夫!」とすぐに切られてしまいます。だから出張中は全く電話も掛けません。
前にも書きましたが、わが息子は「母は居ないと思っている」と私に言った経緯があります。あてにしていないというか、当てにすると、裏切られることが多く、もうすでに母親としての存在と威厳は保たれていません。全く「母は仕事をしているのが一番」と思っているらしく、朝ゆっくりしていると「仕事行きなさい」「なんで会社に行かないの」「出張は?」とか、そういう会話しかしていないような気がします。
実はここのところ我が家では、息子の病気、というか「入院・手術」と言う話がありまして、というのは、私はこの話の蚊帳の外なので、詳しい事、旦那から聞くだけなのですが、それでもあまり詳しく教えてもらえず、「まあ、大丈夫だから、考えないでいいよ。」と言う冷たいのか温かいのか、そんな返事でしか返ってきませんが、何やら事が進んでいるようです。
私が心配しても始まらないし、又心配して治るものでもなし、いわゆる黙っていてくれればよい、という男二人の考え方らしいのです。そして私もこの事、真剣に考える頭もなく、(知識的に)ただただお医者様にお任せし、いざとなったら、身代りに、なんて粋がっております。
皆さんは心配しないでください。「気胸」という病気らしいです。しかしこの病気、原因は精神的なものとストレス、そして栄養不足など、私には心当たりがある原因なのです。
きっと長年のこのノ-テンキな仕事バカが引き起こしたものではないかと、思っております。
よって、母親失格、と言えば簡単かもしれませんが、ここでも息子に迷惑をかけていると思うと、情けなく思いますし、又恥ずかしくも思っています。
仕事ばかりの母親ですが、たまにはこういう告白をして自重しなければなりません。
しかしながら、ストレスと栄養失調と、、、絶対原因は、私、だと思います。将来わが息子の嫁になる方には、ぜひ「料理」が得意な方にして頂き、ついでに私にも作ってほしいとひそかに思っております。
こんな考えだから、ダメなんでしょうね!お恥ずかしい限りです。(息子は今、日本で一番この病気のご専門の先生に診て頂いておりますので大丈夫です)終わりです。

                                                 林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−127 大連にて

2011年08月19日 

今週中国の「大連」と言うところに行ってきました。
個人的な用事でしたので、ついでに言わせて頂くと、主人との1年ぶりの旅行でましてや、2人っきりと言うのは18年ぶりと言う事になります。
まあ、二人とも仕事が絡んでいましたので、「楽しい」、と言うより、「大変!」という事で、何よりの楽しみは大連の海鮮料理、でした。案の定、「ウニ」は大粒で、甘く、何より「安い/500円/個」という事がうれしく、2回も食べに行きました。
今回のニュ-スは、入国審査の際に審査官に「?」と、呼び止まられ、パスポ-トをしげしげと見られてしまいました。
いつもはこんなことないので、「?」と、「なに?」と聞くと、「あなたは日本生まれか?」「なぜ日本籍ではないのか!」と言われ、「なんで?」と、しばし押し問答、係の偉い方が来て、無罪放免でしたが、私にとっては腹立たしい小さい出来事。
後で判りました。この日「大規模なデモ」が大連でありました。ご存知ですか?
化学薬品の会社の垂れ流しとか汚水とか、現地の住民に言っていなくて、8月半ばからこの「デモ」の予報があり、私が行った日は、ちょうどこの日8月14日です。
入国の警官がピリピリしていた訳です。
1年に10回以上も出入りする私をジャ-ナリストと勘違いしたようです。
まあその「デモ」も、運転手さんによると、市の幹部が出てきて説明し、住民の要求をのみ、謝罪したそうです。まさに住民の勝利、中国の民主主義と言うか、中国の発展は、経済だけでなく、確実に変化しつつあります。
夕方、その海鮮料理を食べている頃は、街に警察官の大型車両が何台も走り、封鎖されていた道路が解除され、一般車がその後をつながって走り、日本では絶対に見ることない光景でした。
中国も、ネットや携帯、又何より住民が声を上げて主張し、周りの人々も自分の意見を言い、理解しあうという背景が少しづつ、目に見えてくるようになりました。
ぜひ暖かい目で、じっくり待ってみてください。私は中国は確実に変わりつつあると思います。
タクシ-の運転手さんさえ、この「デモ」を支持し、又その解決方法を支持し、私たち外国人に、「良くなるよ」と言ってくれました。
おいしい海鮮料理を食べに、又中国へ行きたいとも言っています。
来週から「サマ-キャンプ」です。
日本の大自然に、もしかすると来年は中国の若者が来るかもしれません。
大いに国と国を行き来したいと思います。

                                      林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−126 八重垣神社

2011年08月09日 

みなさん、最近「島根」がクロ-ズアップされていますが、ご存知ですか?
もうすぐ10月、「神無月」が出雲では神様が全国からお集まりになるので「神有月」と言うのです。
その大きい存在が、ご存じ「出雲大社」、今では縁結びの神様として大勢の方がお参りに訪れます。またこの影響かどうか、今日本で一番パワ-スポットの場所として有名なのが、この「八重垣神社」です。
出雲・松江出身の私としては、、、行ったことない、なんて言えません。
実は、高校のマラソンは確かこの神社が折り返し地点のはずですが、全く記憶にないのです。
なんという事でしょう!!ものすごく近くにいながら、この無教養!
そこで久しぶりの帰郷に、行ってきました。
まずは母校松江南高、なんとバス通りの三差路上乃木の三差路がありません。(ローカルな話ですが)そこは立体交差になり、あっという間に、どこへ行ったか分からなく、思わず道を聞きながら、坂を上り、見つけました。「わが母校」
しかし記憶にある学校は新しく建て替えられ、全く面影もなく、「これが!!」と絶叫でした。
しかし今でも地元では有名な進学校で、そこの出身の私としては、そこそこ自慢ができそうなのですが、何せぎりぎりで入学できたと思いますので、思い出さないうちに、次はいよいよ八重垣神社へ。
しかしこれまた、迷う事30分、「標識はないのか!」と、地元の道案内の不備さに、怒りつつ、数回人に聞き、やっとこさ、八重垣神社へ到着。
みなさん、すごいですよ、この雰囲気、荘厳な環境、厳粛な空気、本当に素晴らしい空間でした。
縁があるようにと、紙に10円玉を載せて浮かべ、その速さで縁を占う池、東京から来たという若い2人連れに、思わず「早く沈んだね」と、声を掛けつつ、しばしそのたたずまいに、見とれていました。
みなさん、ぜひぜひ一度島根へ行く予定があればお立ち寄りください。
出雲大社もすごいですが、この八重垣神社は必見です。
帰りに車を反対方向へ向かったところ先ほどのわが高校は、この場所から5分のところにありました。
逆方向へひたすら急いだ自分は本当に旅行会社の者か、と思いましたが、次回皆様をお連れする良い勉強になりました。
ぜひお出かけください。                                       林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−125 その後

2011年08月09日 

前回のエッセイで、「落ち込んでいるので、次回の出雲での講演会が、、」と書きましたが、その通り、ものすごく元気になり、やる気になって東京へ戻ってきました。
もともと、くだらない「夏バテ」のせいにして怠けていただけなのかもしれませんが、やはり「人」は行動するべきですね。
少し出雲での事お話ししましょう。
題名は「古代の海商と中国舟山群島-観音信仰の担い手たち-」です。
講師は関東学院大学の田中史生先生、まだまだお若い先生で、どうして?と言うこのご縁に、私が中国「普陀山」の事を熱心に宣伝しているのは、日本人僧侶「慧萼」「えがく」が開祖である普陀山が、年間400万人もの観音信仰の参拝者で、にぎわっており、その開祖が日本人の僧侶、どうしても日本の方々に知っていただきたく、これこそ日本と中国の仏教交流の原点だと思い、中国観音霊場会を通じて毎年交流事業を行っております。ある日、本当に偶然、朝日新聞に、この「慧萼」「舟山群島」の研究をしておられる田中先生の記事が掲載されたのです。それ以来、押しかけて、講演会をお願いしたり、仏教の事でご相談させていただいたり、今回も出雲歴史博物館での講演をお願いした訳です。
中国観音霊場会はこの観音仏教聖地普陀山と20年も交流をしております。毎年の訪中団参はもとより現在は普陀山からも毎年来日され、日本のお寺を見習って、島はきれいに整備され、益々信者さんや観光客を集めております。
その先生のご縁で、次回は酒寄先生と言う「円仁」の研究で有名な国学院大学の先生が講演をなさいますが、これまた酒寄先生の教え子の方々も大勢出雲にいらっしゃり、楽しみにお待ちですし、田中先生のこの研究のきっかけが、出雲のお隣の大田市の僧侶の方、「高野山大学元学長/高木訷元先生」で、これまた中国観音霊場会はもとより真言宗高野派の方々にはとても有名な方で、これまたご縁ができたと、つながりました。
もう一つつながったのは、この田中先生と、私がお仕事させて頂いている学校の校長先生とお知り合いと言うのが、昨日判り、なんだか、動き、人と会い、話、そんな行動で、この1週間落ち込んでいる暇はないと改めていろいろなご縁にファイトが湧いてきました。
ぜひ、今回の講演会にご興味のある方は、お申し出ください。田中先生の当日の配布資料、お渡しします。(面白いですよ!)
そこには、「観音」が、どのようにして当時の交易に役立つのか、国、地域を越え、見知らぬ人と会った時に、手を合わせ「南無観世音菩薩」と唱えることにより、初対面の人に脅威を与えず、まずは、知り合うきっかけとなった事、自分で想像しても、「そうだな!」と納得いくお話でした。
ホ-ムステイでも、どうしたらきっかけができるか、よく学生達に話をしますが、私は、まず「こんにちは!」と相手の国の言葉を言う事、そしてそれを言う時に、それにプラスして「笑顔!」と言って教えます。
「ニッコっと笑う笑顔がかわいいよ!」と。
なかなかできないことと思いつつ皆ができる事、それは、やはり自分を信じることです。
子供たちにも大いに人と話、接して、行動してもらいたいと思っています。
きっといい事、いいご縁があると思います。                              林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−124 古代出雲歴史博物館—観音巡礼-中国路の古寺と仏像

2011年07月28日 

7月22日より9月25日まで、出雲にてこの展覧会を開催しています。
というより、宣伝です。出雲地方のお客様にはぜひともお勧め致しますし、中国地方の方々、又何か行く機会のある方、ぜひともお立ち寄りください。
この点欄には日頃から私がお世話になっております「中国観音霊場会」のご寺院の仏像が数多く展示されております。めったにないことですし、これまでの中国観音霊場会と中国の普陀山の交流の歴史なども、パネル展示しております。ぜひご覧下さい。

実はこれは中国観音霊場会の30周年記念事業の一環なのですが、思えば3年前、出雲では名だたる「一畑寺」さんと、一緒に、この30周年に何をしたらよいか、車の中で雑談しておりました。そこで出てきたのが、この話!すぐさま、車の中から歴博の担当者の方へ電話し、「興味のあるお話ですね!」と、回答を頂き、それからトントン拍子に事が運びました。

22日、そのオ-プニングには、「声明」(という仏教のコンサ-トのようなもの)をご披露し、無事に開幕式を終えました。
まずは順調にスタ-トしております。

7月31日には、その普陀山の開祖「恵愕」のお話の第一人者、田中史生先生の講演会、
9月11日には、「円仁」の研究で最近新聞にも発表された、酒寄雅志先生の講演会があります。
メインは、9月17日に浜田市の多陀寺にて、中国観音霊場会が一堂に会し、又中国普陀山より法師の方々が来日一緒に、世界平和と、東日本大震災の鎮魂の法要を行います。
ぜひぜひ、ご予定頂きお越しいただきますようお願い申し上げます。

*私の起爆剤はこれらになるかも知れないかも!と今思っています。

                                                 林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−123 暑中お見舞い申し上げます。 

2011年07月28日 

暑いですね!
台風のお蔭で、少し涼しく感じますが、それでも蒸し暑い夜が続きます。
このエッセイも久しぶりで、この間本当にいろいろなことがありました。
以前、思いついたときにメモできる手帳が欲しい!と書いたところ、お客様から本当に「これ小さいけど使い勝手が良いよ!エッセイのネタ見つけたら使ってください」といただきました。
「ごっつぁんです!」と、本当にありがとうございます。使っています。
それと、またまたパソコンを壊しました。
これで何台目でしょうか!!!(前に書いたエッセイを読み返すのが怖い)
その為、今までの連絡先、メール、予定表など個人の情報がすべて失われ、茫然としていました。
私より活躍している長谷川さんのPCは全く丈夫に賢く生き延びていますが、どうして私のPCは、壊れるのか!
一言「使い方が悪い!」でした。
通常、よっぽど何かしない限り、壊れるという事はないそうなのですが、修理に出すと、8万円、お蔭でこの夏のバ-ゲンには、行ける資格もなく、10万円で、又PCを買い、新しい連絡先など、1つづつ、入力、全くこの暑い日に、なにしているんだ!と自己嫌悪。
そんな中、中国新幹線の事故、全く、やってくれますね!!
新聞やテレビの報道に、一言も返せず、ただただ、秋の旅の新幹線乗車はやめよう、と心に決め、「中国」の二文字が大きくのしかかり、PCの事もあって、何も進まず、まさに「夏バテ」のせいにしてこのところ、怠けております。
みなさんはいかがですか?
学生時代の夏休みが恋しく、休みと言っても、目的もなく、新しいテレビ(地デジ化)を見ても面白くなく、全く「何を贅沢なこと言っている」と怒られながら、日々過ごしております。
しかし、日本全体が、沈みかけていた時「なでしこ」はやってくれました。
私は、この時、早朝より起きていたにも関わらず、後でビデオで、○○さんと見よう!と、読書をしておりました。その結果、「優勝!」なんてバカなんでしょうか!世紀の瞬間を見なかったという、バカなことをしてしまいました。
何か、自分自身の起爆剤を作らなきゃ!と、今は考えております。
ちなみに長谷川さんは、夏休みには、ちゃんと「旅行」を計画、楽しんでいます。
PCにしても、趣味にしても、うらやましい限りです。
みなさんは、せっかくの夏休み、ぜひ私の二の舞にならないようにお楽しみください。
時節柄お身体ご自愛いただき、楽しい夏をお過ごしください。 林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−122 その続き  2011年06月06日 

5月10日、中国四大佛教聖地「普陀山」では、宝陀講寺の開眼法要が挙行されました。
招待客4000人、その中の一部です。
ほとんどは、寄進をされた地元の方(総工費6億元)、役所関係、政府要人等、相変らずの中国的式典でしたが、我々は、特に臨済宗佛通寺派の方が参加していらっしゃいましたので、日本式に参拝の佛式のお祈りをなさっていました。(地面に敷物を置き、その上で三顧の礼)でしたが、大型画面で写され、周りの中国人の信者さん達は、びっくりというか、しみじみと見ておられました。(すみません。上手く表現できなくて!)
日本式の佛法と言うのもなかなか良いものです。皆さん暑いのに、如法衣も来て頂き、法要に華を添えて頂きました。(衣の色がきれいですね)
この開眼により、今後の参拝客は、島の北側のお寺へのお参りも増えると思います。今までは南側の普済寺近辺が多く、かなり混雑していました。
是非又機会が有ればお参り下さい。

5月12日、全員中国より帰国しました。
しかし、こういう事もあるものです。
上海から広島へ向かう飛行機が、広島空港付近の大風と大雨の為、天候不良で、飛行機が欠航、その為広島行きの方々は、そのまま上海のホテルに宿泊、次の日13日の朝、広島へ飛ぶと言う事になりました。
実はこの時私は本団にて韓国経由で、広島空港へ向かっておりましたので、この連絡はまさに飛行機の離陸直前で携帯電話の電源を下す直前にかかってきました。(ほぼ同時)
上海の空港の係の方に代わってもらい、良く言って置き、幸い皆さん事情が事情だけに、ご了解いただき、その夜は、上海宿泊、13日午前、無事広島到着でした。後にお手紙で「より思いで深い旅行になりました」と、言って頂きました。(ふう!)
しかしながらどうしても帰らなければならない方もいらっしゃり、交渉の末、最終便関西空港行きに乗られた方もいらっしゃいました。(すごい交渉力)
ご予定の方は、まず間に合ったらしいので、それは一安心ですが、本当に最後まで何が有るか分かりませんね!(お疲れさまでした!)
皆様、旅行はご自宅に到着するまでが旅行です。旅行傷害保険もそのようになっております。是非最後ご自宅まで気を抜かず、無事に到着されます様、又ご迷惑をおかけしました広島着の方には、お詫び申し上げます。(何もできなかった事を) 林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−121 毎年の団参  2011年05月27日 

5月7日より5月12日迄、例年行われます中国観音霊場会の団参へ行って来ました。
今年は趣向を変えての、韓国と中国の2カ国、なかなか近い国同士ですが、お互いに直行便が同じ航空会社では移動できないので、帰りは韓国経由の帰国となりました。
韓国ソウルでの幻灯祭り、中国普陀山での宝陀講寺の開眼法要と、内容的には十分な催し物、ご参加の方々には、忙しい日程ではありましたが、めったにない行事でしたので、お楽しみ頂けたかと思います。

韓国もお釈迦様のお誕生日、国の祝日です。子どもから大人まで、それぞれの形でお祝いム-ドです。
昼間は、街を歩行者天国にして、それぞれに出店を作り、手作りの物を売ったり、佛教に関するもの、たとえば「ちょうちん」を作って無料配布したりお寺や学校、会社単位で、その日を楽しみます。
前の夜は、パレ-ドです。ソウルのメイン道路を、通行止めにして、各団体が、パレ-ドを行います。
その数、数万人、沿道も人でいっぱいです。弊社は、メインの舞台が有る中央広場に席を設け、そこに座っての観覧です。夜は寒かったのですが、「ちょうちん」を配り、ほんの気休めの暖炉にして、長い楽しい、奇麗なパレ-ドを見ていました。
子どもの頃からこのように佛教に触れ、又それを休日にして楽しみ、より身近に「宗教」を国の中に浸透させる、本当に意義ある行事でした。
日本にも、「花祭り」が有りますが、地域性が強く、ましてや国を挙げて、なんて、ありませんね。
年に1回クリスマスを祝うように、お釈迦様の誕生日も、楽しく祝う事が出来れば、もう少し「心の癒し」が出来るかもしれません。楽しい行事でした。いつか出て一緒に楽しみたいですね!
それから中国です。
上海から杭州湾を跨いで、杭州湾大橋(36km/世界一の海の上の橋)を通り、そのまま寧波へ向かい、高速を降りることなく、島を跨ぐ、舟山大橋を渡り(いくつかの島をつないでいます)、普陀山のすぐ目の前の島(朱家尖)迄行けます。今や高速道路がつながり、ついこの間、寧波と、この舟山は一度高速を降りることになっていたのですが数か月の間につながってしまいました。あっという間の普陀山です。しかしながらやはり距離が有りますので4時間半、の道のりですが、以前の事思えば行きやすくなりました。又この船乗り場も、大きな駐車場、これからはここまで皆さん車で来て、普陀山へお参りに行くのでしょうね!まったく中国の道路事情は本当に良くなりました。続きは又お知らせします。

                                                 林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−120 義捐金  2011年04月12日 

 4月2日、中国より帰国しました。
毎年行われている青少年交流のホ-ムステイ交流です。
こういうものすごい時期でも、同じように出発が出来、又継続が出来ました事、関係者の皆様に感謝申し上げます。
実際受け入れ側の中国側でも今年は来るのだろうか、との声も多く、大変心配されていました。
上海外語大学付属外国語学校の張校長先生が「担心・放心・快心」--『始めは心配し、来る事になり安心し、今実際に迎えられて、楽しみになりました』とあいさつされました。
担心は、心配する放心は、安心する快心は、楽しい気持ち、です。(心をかけてあります)
お陰さまで10歳から18歳までの子どもたちは北京での3泊、上海での2泊、それぞれのホストと共に、中国での一時を楽しんでくれたようです。
そんな中、北京のベルギ-大使館では、大震災のチャリチィ-バザ-が、在中国の外国人、主には日本人の方々ですが、3月26日にベルギ-大使館にて行われました。
我々大人だけで参加し、北京月壇中学で頂いた「がんばれ日本・加油日本」の10mの横断幕を披露し、在席の方々に見せました。
実は、この26年もの交流を継続している北京月壇中学の生徒が全員で、この横断幕に文字を入れ、義捐金も集めてくれ、今回私達が参加できなかった仙台・東北の子ども達に渡すよう、頂いたものでした。
横断幕を見た時には、被災された方々のあのテレビに映る光景が目に浮かび、涙が出ました。
それを見ていた校長が、「25年間小林(シャオリン)の涙を初めて見た!」と、冗談交じりに、日本の被災地への応援メッセ-ジを述べてくれ、又今年もこの青少年交流が継続できた事、喜んでくれました。
隣の国とは言え、世界中の国からの応援、一部ですが、ありがたく持って帰りました。
ここでおもしろい事に、各クラスでは「募金箱」が後ろに有り、だれがどの位募金したか、グラフで発表されていて、金額が分かるようになっていました。
理由は色々とあると思いますが、日本とはちょっと違うシステムです。もちろん多い少ないと言う比較も有りますが、お金の管理とか、ではないかと思います。
それにしても先の日本人チャリチィ-では、約780万円も集まり、月壇中学では5000元(約7万円)が集まり、現在ラボ国際交流センタ-でも同じく義捐金を募集しています。
私は会社としても、個人としても、できる限りの募金活動をしていますが、仙台のお客様の息子さんが、音楽家としての活動を通じての募金活動を展開しておられます。是非興味のある方はお願いします。
彼の名前は,DJケンタロウ-、世界中に知られたミュジシャンです。一度のぞいてみて下さい。
-----------------------------------------------------------------------------
募金活動「Spin for Japan Project」DJケンタロウ、五次元図案構成、

macha、Sharの協力で始めました!是非皆様のご協力をお願いします!
http://www.djkentaro.jp/spin-for-japan/
収益の全額を赤十字を通じて東北へ募金します。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−119 震災について  2011年03月22日 

 3月11日、中国普陀山に居ました。
ちょうど長谷川さんと、国際電話を終え、この電話内容も知人の息子さんの東京大学合格の嬉しいニュ-スでしたので、二人で喜び、電話を切った所に今回の仙台東北地震です。
東京のビルは大いに揺れ、立って居られないほどで、ビルの外からは悲鳴が聞こえたようです。這って、外へ飛び出し、やっとの事で、室内に戻り、大事な物を持って自宅へ5時間かかって帰ったそうです。
東京に居た人は、みな「怖かった」とその恐怖を話しています。
自宅には、息子が家の中で、這いつくばり、外の公園には、人が集まっていたようです。その後食料もあっという間にス-パ-から消えて、街の中は帰宅難民でいっぱいだったようです。
そんな訳で、海外に居た私には、まるで他人事のようでしたが、この出来事は中国のテレビで知りました。映画のシ-ンを見ているようで、日本に帰り、新聞の写真で、じわじわと実感です。
帰り際、中国の方々から「日本国民にお悔やみ申し上げます」と言う言葉をもらい、なんだか他人事のような、ぼやっとした気持ちで、飛行機に乗ったのを覚えています。
誰が想像できるでしょうか!
こんなにもすごい事が起こるなんて!!
びっくりびっくり、そして何とも言いようのない人間のもろさと、自然の脅威と、どうしようもない無力感と、、、、。
でも連日テレビでの被災された方々が「私は大丈夫だから安心して!」と遠くの親戚に声を伝えている姿、大丈夫じゃないよ!と、何もできない自分が恥ずかしく、「凄いな!」としか感じられず、やっぱり日本人ってきちんと皆さん自分の事ばかりではなく、こんな時も人の事気使い、信じられないほど落ち着いて、でも本当は、すごく大変なのに、、、、と複雑な思いでテレビを見ています。
色々な方から東京に居る私への心配のメール、電話、本当にすみません。ありがたい事と思います。
ありがとうございます。
私は元気です。そしてこれからも節電と自分が出来る事、粛々とやって生きて行きます。
下を向かないで、前を見て、歩きましょう。
皆さん、日本はへこたれませんよ!みんなでこの日本を復活させましょう。東北の方々、今しばらく我慢して下さい。もうすぐ、時間がかかりますが、次の事、一緒に取り掛かりましょう。

今回被災に会われた方々、関係者の方々に心よりご冥福と敬意を表し、皆さんが1日も早く、普通の生活に戻れる事を祈り、そして、次の時代へ一緒に頑張りましょう。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−118 中国へ旅立つ若者  2011年03月08日 

 3月下旬は、弊社にとって、中国との青少年ホ-ムステイ交流が真っ盛りの時期です。
今年の3月には総勢50名ほどの日本の学生たちが中国の北京と上海で、ホ-ムステイ交流を始めます。
送りだすご父兄の方々で、「オフィス華林」って?と、このホ-ムペ-ジを初めて見られる保護者の方々も多い事と思います。
説明会でも申し上げておりますが、「百聞は一見にしかず」です。
若い時に自分の目で、海外を見る事、感じる事、友達を作る事、これがどんなに大きい事か、じわじわと実感するのがこの交流の特徴です。
もちろんただ単に、ついて行けば何とかなる、なんて考えないで下さい。「準備」が必要です。
準備と言うと、何より「自分」への準備です。
きちんと自分の声、言葉で、自己紹介が出来る、挨拶が出来る、そして意思を伝えられる、その上で、次はどうしたら、楽しいのか、喜んでもらえるのか、判ってもらえるのか、その場その状況において、自分はどうしたらよいのか、考えながら行動する事です。
もちろんホ-ムステイ中はホスト以外は誰も、助けてくれません。自分のホストと一緒に、コミュニケ-ションを取り、滞在中の色々な思い出を作り上げるのです。
言葉に書くのは簡単ですが、その場で、その雰囲気で、自分たちで考えて、行動を起こす、同じ世代の外国の友達、100%は無理だけど、その思いが通じるよう、自分をいっぱいアピ-ルして、悔いのない、ホ-ムステイ交流をやりましょう。
どうぞこの弊社エッセイHP上に、過去の先輩たちの様子や私の感想など、少し記しております。お読み頂ければ幸いです。ポンと、背中を押して、信頼して送りだして下さい。
今年は定員がオ-バ-し、お断りした学生さんも居ます。25年で、初めての年になりました。感謝感謝です。皆さん、隣に住む中国の友達に、大いに期待して下さい。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−117 花粉症 2011年03月08日 

 3月に入り、暖かい日と、なんと雪の日と、慌ただしく天気も変わり、少しずつ春にはなって来ているのだと感じる今日この頃です。
皆様は、どのようにお過ごしですか?
私はこの題名にも有ります様に、「花粉症」で、ひどく落ち込んでおります。つい2年前までは、この症状がこんなにひどいとは夢にも思わず、自分には降りかからない火の粉、と思っておりましたが、最近は、特に、目は痒い、鼻水は出る、顔は赤く熱を持ち、くしゃみは当たり前、ひどい症状が続いております。
しかし、この3月、何かと忙しい日々が続いており、そうも言っておれない状況なのですが、幸い、中国には花粉症は無いのです。
「杉の木」がないと言う事でしょうか、それとも植物が少ないせいでしょうか、この時期、中国へ行くとピタッと、止まるのです。
今も薬を抱えて旅立寸前ですが、より強力な目薬を持ち、日本の空港さえ乗り切れば、あとは中国、少し自分の症状がどのようになるのか、楽しみになってきました。帰りましてからご報告申し上げます。
皆様季節の変わり目、お身体にはお気をつけ下さい。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−116 旅行博覧会2011 2011年02月28日 

 弊社が、NPO法人普陀山佛教文化交流協会を設立したのはお知らせしましたね。
日本の僧侶、慧蕚が、五台山から観音菩薩を持ち帰ろうと、日本へ向かっている時、波が来てこの普陀山と言う島に辿り着き、そこから進めず、この地に、観音菩薩を奉納したのが、この世界的に有名な観音聖地普陀山の謂れだと伝えられております。
その為、私はやはりこの普陀山の開祖が日本人であると言う点が、一番心魅かれます。
日本の方々に、是非普陀山との観音のご縁を、と、思いこの法人を中国観音霊場会と言う日本の中国地方のお寺の方々と設立しましたが、なかなか、知名度が広がりません。
そこで、今年の9月末から10月、東京で行われる「日本旅行博覧会」に出展する事になりました。来場者人数11万人と言う日本で最大の旅行博です。
是非この機会に、「普陀山」を知って頂き、日本と中国は、こんなご縁も有るのだと知って欲しいと思っております。今から準備で胸はわくわく、ですが、良いアイデアがあれば教えて下さい。来場の方々に楽しんで頂ける普陀山紹介にしたいと思います。東京地区の方は是非ご来場ください。世界中のブ-スがあり、1日中楽しめるイベントとなっております。9/28~10/2迄です。宜しくお願いします。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−115 今日この頃 2011年02月28日 

 中国のお正月も終わり、学校も始まり、役所関係も動き出し、この2月末と言うのは、中国では新しい年を迎えた、という新鮮な感じがします。
又弊社では、3月の子ども達のホ-ムステイを迎える時期に併せて、名簿作成や、出発の準備等で各地でその為の説明会等行います。
子ども達も今や、ネットやテレビの影響を受けているので、「中国」のイメ-ジがある程度は有るようで、昨日の説明会で「中国とは?」と言う質問に「人口の多い国」「経済発展のすごい国」「中華料理がおいしい国」等彼ららしい言葉が出てきました。
確かに、人口は多いし、経済発展もめまぐるしく伸びています。
是非肌で感じて来て欲しいと思います。
ただ、その説明会では大人の方が同席していましたので、「なるほど子どもらしい回答だな」と、思いつつ、大人が居ない場での話では、「中国では反日運動がある」「中国は共産党の国だ」と言うコメントが出ました。子どもなりに(11歳から14歳)テレビや新聞報道から、学んでいるようです。
一言、「少なくとも私達がホ-ムステイする家族や学校には、反日感情の人は居ないよ」と、「共産主義って何かな?調べてみようね!」と諭しました。
「百聞は一見にしかず」この春休みには約50名以上の学生を中国に連れて行き、ホ-ムステイをします。
どんな国?と言う第一印象から始まって、笑顔で帰ってくるよう、楽しいプログラムを考えたいと思います。
保護者の方々、先生方のご協力をお願いします。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−114 中国のお正月 2011年02月03日 

 中国では、春節(シュンセツ)と言って、日本のお正月とは違います。
季節の行事などは旧暦を使用するので、今年のお正月は2月3日、となります。
その為、学校関係は、1月15日頃からテストを始め、25日位からすでに春休み、これが2月の2週目位まで続きます。約1カ月です。
会社関係は、2月1日位から徐々にお休みと言うか、年度末を迎え、2月の10日位迄お休みになります。しかし、日本や他の諸国との関係も有り、交代でお休みを取る企業も増えてきましたが、今日の新聞によると、中国関係の仕事や会社が増えて来た為、最近はこの「春節」に併せて、「お休み」とする会社企業が増えてきたようです。
世界の人口の4分の1は、中国系、よって中国人にとって1年で一番楽しい「春節」
なかなか無視できなくなっています。
我が社もこの時期は、中国とのやりとりも出来ず、学校もお休みの為、ひたすら「待ち」の状態です。これをすなわち『華林の開店休業状態』と言います。
明日は節分、各地では色々な行事も有ると思いますが、大勢で過ごす「行事」はどの国にとっても楽しいものです。皆様も四季折々、色々お楽しみ下さい。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−113 日本の良さ 2011年02月03日 

 この題名に有るように海外から日本を見ると「日本っていいな」と思います。
まずは治安の良い事、食事が多種多様な事、お年寄りが健康で長生きである事(お年寄りがお化粧をすることが中国では驚きなのです)、そして自由に言論が、良いも悪いも言える事。
今、エジプトでの騒動でも、インタ-ネットが使えなくなったり、色々と規制が有るようですが、その点日本は、自由ですよね。当局によって阻止される事はないかと思います。しかし反社会的な言動に対ししては、普通の人がそれを阻止すると言う、そういうモラルが行きとどいている気がします。
又、食事の面ですが、有る中国の友曰く、「日本は中華も、洋食も和食も、何でもメニュ-が豊富で気軽に食べられ、非常にうらやましい!」と、私から見れば「中華も色々とバラエチィ-が有り安くておいしいけど」と反論すると、「中華は中華、その範囲での食事は有るけど、日本のように、多国籍と言うか、食べたいものがすぐに食べれる国はなかなかないよ!」との事。余りに日常的にあれこれと食事をとっているせいか、そのありがたみがなかなか口に出す事はなかったのですが言われてみればそうかも!
そしてこの自然、四季折々の風景、おいしい水、普通の日本が実は海外から見るとものすごく素敵な国だった、と思えます。
見方を変えると、不平不満は数々あれど、実はそれも小さい幸せだったり、、。
あわてて朝ご飯に食べた「お茶漬け」も、「おいしい」!と思って味わって食べれば、1日ハッピィ-だったかも!

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−112 大雪 2011年02月03日 

  日本各地では大雪の様子が伝わってきます。わが故郷島根県でも大雪とか聞きます。
昔、と言っても子どもの頃、「かまくら」など作って遊んだ記憶が有るので、「雪」は身近な物でしたが、関西から東京へ引っ越して以来、「雪」には無縁でした。
この東京はからから天気、事務所に居ると、日差しが暖かく、本当に東京は住みやすい所だと思います。テレビでは大雪のニュ-ス、「大変だな!」と思いつつ、自然の力になすすべもなく、見ている、耐えているだけですね。
有る人が「やはり中国の旧暦は正確だ、今の時期が一番寒いんだ」と言いつつ、「春節」の時期の正統性を訴えています。何の事はない、ただ今日明日は会社を休んで良いか!と訴えているだけでした。
山陰地方の皆さん、怪我しないように雪下ろしがんばって下さい。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−111 今年も宜しくおねがい申し上げます 2011年01月11日 

 2011年が明け、皆様新しい年をお迎えの事と思います。今年も世界が平和に、そして幸せになるよう心より祈っています。
年明けから皆様からお年賀状を頂き、誠にありがとうございます。弊社では年賀はがきを送るより、1年を振り返り、又新しい1年のご案内に、と、「華林新聞」と称して、封書にてお年賀代わりに送らせて頂いております。
毎年、あれでもないこれでもないと、大騒ぎなどして、作成しておりますが今年は手書きに、コピ-に、と、節約タイプにてお送りしております。何かとお見苦しい点も有ったかと思いますが、お読み頂ければ幸いです。
文章を書くのは嫌いではありませんが、しばし時間がかかります。
精神統一とでも言いましょうか、電話とか会話とか、一旦途切れさせ、パソコンに向かいます。
元来本を読む事は好きなので、読む事も書く事も苦にはなりませんが、それには、「出遇い」が必要です。
「そうだ!これを書こう!」と思った時に、メモでもすれば、このコ-ナ-も充実すると思いますが、何せ『ずぼら』な性格ですので、つい、その餌を逃してしまいます。
今年は、メモをする習慣を身につけないといけないな!とも思います。
1月は、間が空いたようにボッ-と過ごしておりますが、少しづつ、仕事が動き出しております。
本当にありがたい事と思います。
仕事が有る内が華!いつも言い聞かせて、過ごしております。
今年も皆様とのご縁を大切に、何卒宜しくお願い申し上げます。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−110 講演会 2010年12月03日 

 「え~っ!」と驚かれるかもしれませんが、東京近郊の某高校で、80分の講演会を行いました。
総勢1000名、高校1年から3年迄の男女共学の進学校です。
きっかけは進路指導の先生と、長年知り合いは知り合いですが、あまりお話しする機会もなく、海外へ行った際の空き時間で、少し会社の事、交流の事等お話しする機会が有り、「是非うちの子供たちへ話しをして欲しい」という事で今回の講演会となった訳です。
もちろん緊張しましたよ。謝礼ももらった訳ですから、そんなに生半可な話では申し訳ないと、一応、頭の中に、原稿を浮かべ、70分話しをさせて頂きました。
内容は、『名前』の話から「どうして中国と関わったか」とか、若い時代からのスト-リ-を交じえて、ちょうど彼らたちと同じ高校生の時に「中国語をやってみたら」という先生と出会い、大学へ行った、という話です。
その先生は、『そんな事話したっけ!??』と覚えてはいませんでしたが、私の人生を替えるに十分な助言でした。
そんな事を話しながら70分、一応、満足(自分的に)にお話しさせていただきました。
帰ってから、弊社のHPを開いて頂いた生徒さんも有るかと思います。終わってから1人の生徒さんが中国から日本に来て、今日本で住んでいると言う女子生徒さんが、挨拶に来られました。
男の子もかわいいけど、女の子もかわいいですね!
是非夢を持って頑張ってほしいです。ありがとうございました。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−109 秋今日この頃 2010年11月29日 

 大変お久しぶりです。このエッセイ、まったくもって、2か月は休止状態だったかと思います。とにもかくにもお待たせいたしております。すみません。
つれづれなるままに、少し近況報告とさせていただきます。
この9月~10月、これ迄で一番忙しい日々を送らせて頂いたかと思います。有りがたい事と感謝申し上げます。
実は、これまで得意?としておりました子どもの交流、日中青少年ホームステイ交流が25年を迎え、佛教関係のツア-では20周年を迎え、それぞれ節目の年に当たり、日本からは行く、中国からは来る、と言う二重のお仕事が重なり、日本と中国を行き来しておりました。
ラボ国際交流センタ-と北京の月壇中学との交流は25周年記念式典が東京で行われ、手作りの、自分たちの(子ども達の)お祝いの会が行われ、それはそれは暖かい雰囲気の中、中国側はもちろんの事、参加された関係者並びに関係各位の方々に、素晴らしい未来への約束が出来ました。
きっと25年で終わることなく、これからも継続される事と確信しております。
又佛教関係では、中国観音霊場会と普陀山佛教協会が交流を始めて20年です。これまで幾多の困難が有りましたが、ここまで来ることが出来ました。これも継続発展していく事と思います。
併せて感謝申し上げます。
しかし
この時期尖閣列島問題の発生と同時の出来事でしたので、この間、そして今も私の心は晴れません。
ちょうど9月の初めは、中国に居ましたので、日本での報道は見ておらず、又その最中も中国に居ましたので、小さい記事の反日デモの記事のみ、見ておりました。そのせいか、皆様の反応よりかなり鈍感な部分でいたのかもしれませんが、残念ながら旅行と言う媒体はやはり「楽しく」が非常に重要ですので、キャンセルになったツア-も有りました。
それはそれで逆に、忙しかった私には、お年玉のように、少し休むことが出来ましたが、やはり心は晴れません。
歴史的な事、政治的な事を議論できるほど知識も持っておりませんが、先の活動の中で、何が一番大事だったかと言いますと、「心」でした。相手を思いやる気持ち、いたわる気持ち、そして前を見る勇気、日本と中国の交流には、「人の心」が必要です。綺麗事と言われるかもしれませんが、待っていてくれる人が有れば、是非行きたいものです。
どうぞ、今後共関係者のご協力のもと、一歩一歩進んでいきたいと思います。
関係者の皆様誠にありがとうございました。
今後も日本と中国の真ん中に生きる華林に、温かいご声援を宜しくお願い申し上げます。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−108 高校生海外研修 2010年11月29日 

 弊社はご存知のように、日本全国からお客様を募集して、中国へ行くツア-形式ではありません。ある程度まとまった団体からの要請を受け、交流を手配し一緒に中国へ行くと言うツア-形式です。
その中で神奈川県の私立高校の海外研修を担当させて頂いております。
今回で5回目になりますが、各年、中国と日本又はインフルエンザ、などと、日本国内旅行とは違い、多々問題が発生します。
時期が悪いのかな?とも思いますが、順調に行く団体より、何か困難が有る方が弊社の力は発揮できると思います。ファイトが涌くと言うか、いつも以上に「楽しかった」と言ってもらい、「行って良かった」と言われたい、そうしなければ、華林が引き受けた甲斐がないとでも申しましょうか、気が済まないと言う変わった性格をしております。
今回も又、先の問題発生で、保護者の方々より「大丈夫?」とのご指摘を頂き、改めて参加の是非を問い、出発致しました。
それで??と言われましたら、一言「楽しかった」と言う結論です。
高校生2年の男子達ですが、行く前は、出し物の練習もしていないし、交流相手は女子が多いし、なんとなく消極的草色系男子のようで、大いに心配でした。私の方こそ、参加のみんなに「大丈夫?」と母心で声をかけ、表面では大丈夫、心では、「大丈夫かいな!」と言う感じ!
上海の交流、昼間は自由行動にて上海の街を歩き、夜は立食の交流会、ここで出し物をするのですが、幸か不幸か、上海の校長先生が怪我をして、交流会欠席との情報、「やった!」と私はにやり、これで、少しは肩の荷が下り、自由にやれる、と言う事になりました。
一応学校行事なので、司会から、校長挨拶から、感想から、など、形式的なプログラムが用意されていましたが、こうなれば、学生達に「自由にやって!」と、その結果、なんと、学生たちは生徒会長を中心に司会、進行、そして出し物、やってくれました。
男子のノリで、そして野球部のノリで、、、、。
いったい何をするのかいな!と上海の先生たちも興味深々で、他人事のように、見ておりました。
やる時はやるものです。ふざけるのではなく、楽しむのです。歌あり踊り有りダジャレあり、上海の学生を巻き込んで最後はみんなで作った手のア-チをくぐり、サヨナラでした。涙こそ有りませんが、満足感は有ったと思います。
最後、「やった-!」と声掛け合い、終了、もちろんプログラムはこれだけでなく、話題の上海万博、しかも中国館見学や杭州への小旅行も行いましたが、彼らの感想は「交流会おもしろかった、上海に来て良かった」と言ってくれました。
旅行で少し経験をして大きくなって帰国してくれたのではないかと思います。それは私が作ったのではなく、彼ら自身が作った経験であり旅行です。
「縁」と言う言葉を良く使いますが、まさに上海を選んでくれてありがとう!そして又、いつか縁が有れば会いましょう。感謝感謝です。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−107 キャンプ終了④ 2010年09月06日 

 色々なエピソ-ドがたくさんあります。終了後の先生方のお話に中にも、良い話や助けあった話、普段見せない面を出した生徒、たくさんのエピソ-ドをお聞きしました。
やはり中学生は毎日伸びるんですよ。それには環境とかきっかけとかが必要です。
先生の一言、仲間の一言、そして周りの大人の一言や行動が、何気ない事が大きく影響するこの世代だと思います。
まだまだ知らない出来事がきっといっぱいあったと思います。みんな成長しました。
300人、何か得た物が有ったと信じたいと思います。
学校で見た300人、横浜で見た300人の数が、黒姫の山の中では、ちっぽけな小さな集団の大きさでした。大自然の中では人間は無力です。大きな木の下、大きな土の上、人間はその中でエネルギ-をもらうのだと、実感です。
今日から2学期が始まりました。この夏休みの行事をどのように感じてくれているのでしょうか。
毎日の学校生活は単調かもしれませんが、私達が行う行事で、何気ない一言や行動を子どもたちに配りたいと思っています。次はなんでしょうか!楽しみです。次も(は?)失敗しないよう頑張ります。
皆さんありがとうございました。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−106 キャンプ終了③ 2010年09月06日 

 有る生徒さんが、『具合が悪い』と、ずっと医務室に居ました。医務室の先生によると少し精神的に不安定と言うか、おなじロッジの生徒さんと旨く行かないようで、食事もあまりしていなかったようです。
身体は大きいのですが、その分、ものすごく繊細な感じの生徒さんで、先生も有る程度判っているようで、「ここに寝かしておきますが、自分で起きれるので大丈夫です。おにぎりでも作ってくれませんか?」と。
それで、一個作って渡すと、ペロ!
「もしかしておなかすいてる?」「はい!」と言う訳で、ロッジではなかなか食べれなかったようで、おおきいおにぎり三つも食べました。
お風呂も入っていないようでしたので、疲労困憊、すぐに部屋へ帰るよう先生と相談してみんなが居ない内にお風呂へ。「○○君って良い名前だね!」と声かけると
「はい!ありがとうございます」との返事。
一安心です。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−105 キャンプ終了② 2010年09月06日 

  みんなでハイキングへ行った時の事です。私は帰りを待っていましたが、中学一年生の小さい子がさすが体力的に大変だったらしく、泣きながら帰ってきました。
そばで先生が付きっきりで、声をかけ「がんばれ!もうすこしだ!」と。
とうとう泣きながらゴ-ルイン、その後、ばつが悪いのか医務室へ行きましたが、本人は、疲れと戸惑いと、どうして良いか分からず医務室へ行ったようです。
あとで医務室の先生に聞くと案の定、『大した事ない』との事。こんなに長く家を離れて、過酷?な行事で、泣きながら少し大人になる過程の戸惑いかもしれません。涙を流した分だけ大きくなるよ!来年は二年生、がんばりましょう。
こういう場面がみられるこの仕事、最高だと思いませんか!!

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−104 キャンプ終了① 2010年09月06日 

 先月から書いておりました夏の黒姫山キャンプが終わりました。関係者の皆様お疲れさまでした。
得る事の多い経験をさせて頂きました。会社創設以来初の経験です。本当に初心者で申し訳なかったと思いますが、基本、関わっている人が楽しければ『成功』と言えるのでは、と自己満足部分と、「ある種の後悔」と少し複雑ではありますが事故もなく、無事大勢のお子さん達をお返し出来た事は一安心です。
人間、いつでも「学習」ですね。頭と体で考えていてはだめですね。何せ、ご飯を盛る時の牛丼の量が判らず、280人目以降の生徒さんや先生には、最初の子の半分以下と言う、ものすごい結果になり、今でも思い出すと心苦しくお詫び申し上げます。
私のような大雑把な性格はダメですね!
何とかなる!と常に思うのであります。
どうしよう!卵どんぶりにでもするか!卵有る?等と長谷川さんと頭を抱えていたら、
「しょうがないもう一度作るよ!」と現地の食材の会社の方のお言葉!残りの10人分の牛丼を作って頂きました。
又何とか、なった!と安心しては行けません。十分反省しております。
ごめんなさい!
一つエピソ-ド。
この時、生徒の一人が「えっ!無いの?!」と声を上げるとボランティアの方が一言
「人生にはこんな事も有るもんだ!」と。
思わず固まってしまいました。
その生徒さんはその後、じっと待っていてくれ、作りなおした牛丼を食べましたよ。
きゅうりとトマトは大盛りで出しましたけど!

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−103 訪日団 2010年07月30日 

 この所新聞紙上に中国からの訪日団が増えてきたとの報道が有りますね。地方の活性化にも良いし何より、日本での大量の買い物、それだけでも日本経済にとっては良い事でしょう。 そこでいつも「華林も?」と聞かれます。
そうです!
弊社でも明らかに日本へ来る団体は増えておりますが、、、実は一般の団体の方は取り扱わない事にしております。
値段の安さでは大手会社の方が安いでしょうし、弊社では、細かいところまで手が届く旅行、と言うか、佛教関係の方々とか役所の方々とか、それなりの方が100%です。
よってどうしても私が随行したり、出来なければ、長谷川さんが同行します。大型バスではなく、専用のドライバ-さん付きの車、結局旅行代金は高くなります。
しかし、それでも良いと、その方が良いと、言われます。
時間の無い方々、効率よく回り、仕事と言うか交流活動をする為には、お金には替えられないと言う方ばかりです。
それでも増えております。弊社だけでもこういう事情ですから、他社さんも大忙しのはずです。

茨城空港に格安航空会社が参入、4000円(片道)と言う数字も出ました。すごいですね。業界上からは考えられません。(限定1便10名のネット販売だそうですが)
でもこれで中国の学生さん達が来てくれたら嬉しいな、と思います。
今年の夏、交流先の北京の学生が、安い料金の航空券がなくなりキャンセルとなりました。1年間待っていたのに、航空券が高く、結局ダメになりました。残念ですね。
交流は相互に行う事が一番効果的です。日本から学生を中国へ連れて行く私は、是非中国の学生にも、日本に来てもらいたいと願っています。
今は『茨城空港にしたら?』と言いたい所ですが、この航空会社は上海便なのです。北京からは遠いですね。
もう少し緩和されたら、学生料金ができるかもしれません。日中間では、是非必要ですよね!!待っています。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−102 お母さん 2010年07月28日 

  新聞の報道で、秋葉原無差別殺人事件の話がありました。小さい頃からお母さんに、色々とうるさく言われ、それを陳述として述べていました。
それを読んで、一つ前のエッセイに、息子の事を書きました。以前には「僕だから、ぐれなかった」と息子に言われてしまいました。そういう中途半端な母親です。紙一重です。
子どもと母の間の溝と言うか、悲しくなりました。そして落ち込んでいます。
自分の息子は大丈夫、と、どの親が言えるのでしょうか?
いまや虐待とか、はては、親の老後の介護の話とか、1人の母親として、心苦しくなる出来事が目に付きます。
そんな折、北京へホ-ムステイ体験をした中学生が、「やっぱりもう一度行きたい」と、この夏休みを利用して再度、訪中、無事帰ってきました。
私へのお礼のメールと同時に、彼らの言葉の中に『強さ』 を感じました。
中学3年生の時に北京のホームステイの友達に出会い、この夏ではなく、大学入試後に再度行けば、と言うアドバイスに、『僕たちは来年以降、大学受験という、年になります、だから今悔いの無いよう、今年1年生の時に行きたいです』と堂々と私を説き伏せました。
『やり残したことがあります』とはっきりと言いました。
初めての中国、何がなんだか分からなかった、と、だからもう一度行きたいと。
もちろん結果は、彼ら自身の内にある満足感が芽生えたのは言うまでもありません。
そして、私は、『両親と先生に感謝して!』と一言、どちらの反対があっても実行できない、高校生1年3人の旅です。理解がないと出来ない体験です。
彼らを信じて送り出してくださった、ご両親、特にお母様の思いは、察するに、余りあります。
今自分の息子が海外研修で出かけ、わずかな時間、又こういう立場の母親でありながら、この体たらく、やはり母の気持ちは、無限のものがあります。
先の報道の被告人は、母の気持ちが、反対に繋がってしまったのかな!と思います。誰でも母親であれば、子を思う気持ちは変わらないと信じたいと思います。
そういう子どもたちに、私たち母親は、どうしたらよいのでしょうか?
自問自答の今日1日でした。
何はともあれ、北京へ行った3人、大きくなって欲しいです。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−101 夏のお掃除 2010年07月28日 

 暑い日が続来ます。何をしても汗が出る。ここで私は、部屋のお掃除。『床拭き』です。よく雑誌などで、年末の大掃除は夏にしたほうが良い、と言う話がありますよね。私も同感です。暑いからこそ動き、大いに水をまき、サッシや、外壁、水道からの水を思いっきりかけても、すぐに蒸発、水まみれになっても、シャワ-で落とす。豪快にお掃除してみてはいかがでしょうか?
今日も、床を拭きました。普段のチョコチョコ、と言う規模ではなく、モップに水を含ませ、大胆に床を拭き掃除。
爽快ですね。
それ以外はさすが体力が持たず、ギブアップですが、シャ-ワ-を浴び、滴る汗文は体重が減ったこと期待しながら、体重計に!500g減っていた、と自己評価、その後、冷たいビ-ルで一人乾杯、きっと元に戻っているだろうな!と満足半分、公開半分、喜ぶのは同居人だけでしょう!
皆さんも夏の暑いとき、クラ-を止め、家中開け放してお掃除はいかがでしょうか?
過去に「お寺の長い廊下を掃除したい」と言ったのは、失言として取り消させて頂きます。
暑い日が続来ます。お体に気をつけて、夏をお楽しみ下さい。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−100 キャンプ 2010年07月28日 

  先日キャンプの話はしましたね。この夏、嬉しいことに、キャンプのお仕事が入り、楽しみにしていると言う話ですが、ここ学生時代以来、キャンプとは無縁の私でした。残念なことに車の運転もしませんので、子どもとの思いではいつも海外です。(と言ってもお余りいい思いでもなく)と言うかそれしか思い浮かびませんでした。しかしここに来て、最近『日本のよさ』に目覚めております。長野県の特産は?とある方に聞かれ「?」と答える自分、本当にすみません。『かつソ-ス』とか「栗おこわ」とか、全く知りませんでした。今年は新入社員のつもりで、このキャンプに取り掛かろうと思っております。皆さん心配しないで下さい。何とかなります。そして楽しいキャンプ期待して下さい。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−099 弱 点 2010年07月25日 

 皆さんの弱点は何ですか?
私は今日敢えて「息子」と書かせて頂きます。
本よりカナダへ研修旅行へ行きました。10日間です。さっきまで、荷物の事とか、もって行くものとか、あれこれし、1人で出かけていきました。
何百回も自分がこの家を出て行っているのにもかかわらず、未だに、息子が出て行く事が不安で、改めて考えると、弱点は『息子』か、と。
しかし、日頃、息子に言っている事は、もし万が一、緊急事態が発生した時には、ママは、お客さんを先に助けるから、あなたは、自力でがんばりなさい、と言い続けてきました。
皆さんは「?」と思うかもしれませんが、実際、息子を同行の旅行で、こういう事態がおこりました。
子どもの旅行で、熱を出した子どもとか大勢居まして、その子達には、熱さ冷ましから、食事の世話とか、かいがいしく行っておりましたが、同時にわが息子も同じく高熱、『あんたは大丈夫よ!』との一言に、彼は何も言えず、すっと我慢していたようです。
他の参加者の方が、『○○君(息子の名前)39度もあるよ!』と言う一言に、今まで他のお子さんには、熱さましやら、かいがいしく動いていた私は、何も成すすべもなく、「大丈夫、がまんしなさい」と一言言っただけで、何もしなかったそうです。(あとから息子曰く)
他の参加者の方が息子に下熱剤を飲ませて頂き、そのまま眠り、ビタミン剤とか、頂いたおかげで、もちろん元気になりました。
しかし問題はこの後、です。
息子は生涯(と言っても17年ですが)忘れることの出来ない、ママが僕を裏切った行為、だそうで、二度と絶対にこの地(内緒)には行かないと心に決めたそうです。
それ以来、私のツア-には絶対に同行しませんし、私も誘いません。
こんな事もあり、家族での旅行は仕事柄、全く少なくなり、息子が海外へ行くのは単独、と言うことが多くなりました。
今回は学校行事なのですが、中学の頃の大胆さの1人旅、を数度成し遂げた度胸とは別に、何だか、不安げに出かけていきました。
親のほうがおろおろするとは、ある程度予想は出来ましたが、ここに再度、鋭い1発が、父親から「夕べうなされる夢を見た、必ず交通安全のお札を持っていけ」との出発1時間前のお言葉。
これが中国国籍の主人からの言葉です。
幸い、お寺から頂いたお札はいっぱいありますので、持たせましたが、この我が家のこの状態、本当に不思議です。
結論は、一言、弱点は息子でした。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−098 キャンプ 2010年07月14日 

  夏です!キャンプです!と言いながら、本格的なキャンプではなく、「仕事」として取り掛かる事になりました。普段の食事もろくに作れない人が、ましてや、キャンプの世話をするなんて、、、。さすがにお客様もあまり私を当てにせず、担当の長谷川さんへ連絡が入るところを見るとやはり傍から見ても、、、。と思いますが、今から楽しみです。
仕事を仕事と考えず、楽しみとして取り組んでいますので、本当に「ワ-イ!ワ-イ!」と騒ぎたい気分です。
何を持って行こうか、何して遊ぼうか、等等不謹慎な事考えております。
隣で長谷川さんは、パソコンとにらめっこです。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−097 涙 2010年07月13日 

  がらりと変わり、皆さんはどうやって泣きますか?最近泣いた事有りますか?
結構泣く事が多く、イメ-ジとしては、歯をくいしばり、耐え忍ぶタイプと見られているようですが、自分でもピ-ピ-とよく涙します。
原因は色々と有りますが、やはり「悔し涙」が多いですかね!思う通りできなかったり、後悔したり、感情が高ぶった時に涙が出てきます。
そう言えば、バスの中で始発から終点まで、「ママがいい」と泣いていた親子連れが居ました。3歳位の男の子、お父さんとではなくて、お母さんが良いそうです。「ママがいい」とずっと泣いていて、周りの乗客の方が飴玉あげたり、なだめたり、でもダメでした。成城の駅から渋谷迄、ずっと泣いていました。
その時に感じた事は泣く事も体力が居るんだな!と言う事、そして若いな!と言う事。
年取ると、なかなか涙は出てきません。と言う事は私は若いのかな!とうぬぼれそうですが、よく泣くのは、以前の事。お客様から、「良く泣いて来たから、今が有るんだよ」と言われました。
そうやって大きくなってきたんだな!と思います。

今は悲しい時はお風呂で泣く事覚えました。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−096 お弁当禁止 2010年07月12日 

  とうとう息子からお弁当作成禁止命令が出てしまいました。夏休み前と言うのと、季節がら傷みやすいと言うのも有ると思いますが、さすがワンパタ-ンは、飽きられました。卵焼きとウインナ-です。私は逆にこれが定番、と無かったら寂しいと思いますが、息子は違うのですね!4月5月は毎日作ったお弁当をチェックされ、6月出張が多く、出来ない日が続き、さすが毎朝の口げんかも頭に来るので、作らなくなったら、本人は案外ほっとした感じです。これだけが親としての仕事かも!と自負しておりましたが一旦辞めてしまうと内心私もホットしました。そうやって子どもは成長するもんでしょうか!せめて家に居る時は夕ご飯は作ろうと心に決めた私でした。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−095 6月ですね~! 2010年06月04日 

 もう6月になりました。そしてこのペ-ジも、6月3日に書き込んでおります。
月日の経つのも早いものと思いますが、今年の4月~5月、一体自分は何をしていたのか、と思いだされるほど早く過ぎて行きました。
遊んでいたと言う事はないので、毎日毎日、1時間1時間、精いっぱい動いていました。
働いてばかり、と言いたい所ですが、仕事以外の事も精一杯やったと言う満足感は有ります。
幸いな事に、すべてが100%とは行きませんが、自分の持てる力と能力と、使って、そして時間を過ごした、と言う実感です。
「疲れた」と言うのとは違う、何か使命感のようなものに苛まれていたような気がします。
何かが私を動かしていたのかもしれません。
仕事は順調に動いております。しばらくご無沙汰してしまいましたので、このページをお借りして、皆様へご報告申し上げます。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−094 学級委員 2010年04月07日 

 私には1人、息子がおります。高校生なのですが、こういう外に出る仕事ですので、これまで小さい時は別にして、大きくなるにつれて、ほったらかし、と言う状態でした。言い訳をすれば、やるべき事はやっているつもりですが、息子曰く「僕だったからぐれないで育ったけど、普通ならまともに育たないよ」と言ってくれます。しかしながら、家に居る時は、朝お弁当を作り、、、ですが、昨日「おいしくないから作らなくて良い」と言われてしまいました。この話でもへこみますが、よって、ここでこの題に有る「学級委員」です。
4月の保護者会に、どこでもそうだと思いますが、20分以上、手が上がらず、ずっと先生が、保護者の方へお願いしていらっしゃいました。ダメだ!ここで手を挙げては、自業自得で、我首を絞める事に、と言うささやきと、何とかなるんじゃない!先生がかわいそうよ!お世話になっているんだから!等と言うささやきと、20分以上はもたない頭でしたので、「私がやります!」と手を挙げてしまいました。
息子に話すべきかどうか、いづれは判るし、きっと「辞めてよ!」と言われるな!とか想像しましたが、結局学級委員になりました。なってみると、本当に何とかなるし、出来ない時は、代わってもらえば良い、と腹をくくって、いそいそと自分のスケジュ-ルの中に「PTA」と書き込んでいます。
会社の黒板にも[PTAリン不在]の文字が、、、。
息子は!と言えば、ある会合に、「1時からだよ。遅れないように!」とメールで知らせてくれる程、心配で心配でしょうがないようです。日頃の私の様子から「ドジる」と、思っているようです。
早速やりました!PTAの方どうし、メールの交換が有り、私は、結局自分の携帯アドレスとか操作方法が判らず、家に帰ってから、本を読んで、やっと皆さんへメールが届けられました。ほんと冷や汗ものでした。いかに日頃、長谷川さんにお世話になっているか実感した1日でした。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−093 パンダ 2010年04月07日 

 この春、上海動物園へ行きました。
 動物園と言えば、何といっても「パンダ」、なんと上海万博にお披露目するために現在10頭が上海動物園にいます。過去に、成都のパンダ飼育研究所には、たくさんのパンダがいたのですが、四川省地震の為、各地へ分散、又今年は特に上海万博に出る為、8頭が新たに、この動物園に来ました。動物園の前の道は修理中、あと数日の万博には間に合うと思いますが、幸治中の中、恐る恐る値上げした入場料を支払い、中へ。
 するとパンダ館に、いました。それも元気良く本当に動き回っています。従来から上海にいるパンダ2頭は、もう年寄りで午後の2時、この時間は何時もお昼寝ですが、今回は違います。
 騒ぐ、走る、喧嘩する、じゃれる、まったくじっとしていません。パンダの方から私達が見えるのか、ガラスの壁に顔を押し付けたり、背中を向けたり、まったく飽きることなく、写真を撮り続けました。わが子でもこんなにたくさん撮った事はありません。あの愛らしいしぐさと姿、神様がくれた宝物ですね。皆さん、後で写真をアップしますので、どうぞお楽しみ下さい。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−092 最近の中国ー上海 2010年04月06日 

 上海万博まで、後1か月を切りました。道路工事もほぼ終わり、私が行った3月末から4月は、ちょうど道路の開通や、試験的にオ-プンしたところとか、それなりに賑わっていました。まず、「道路」、皆さん外灘の付近は行った事が有りますね。あの外灘が、ずっと延長して、河のほとりをまっすぐに長く歩く事が出来ます。又その前の道路、通りましたよね。その路に沿って万博会場へ行くのですが、道が少し狭くなっています。緑の緑化道路になりました。狭くなって大変だと思ったら、なんとその下に6車線の道路が有るのです。上は4車線、下(地下)は6車線、それを行くと万博会場につながります。何という発想、上が混雑しているなら、地下へ、と言う話ですね。それに伴い、地下鉄も充実しています。北京オリンピックでも、地下鉄の方が便利で安い、と感じましたが、この上海も例外ではありません。そのアクセスは、東京を目指しているようです。上海は海の上、とかく位昔は、揚子江の土砂がたまりできた、田舎の町でしたが、今や世界に誇る大都市になりました。そう言えば、「虹橋空港」も新装オ-プンです。いつの間に、と言うスピ-ドで、皆さん驚かれると思います。
 中国の工事は早い!国際空港としても使用されていますから、何かの機会にぜひ比べてみて下さい。
 以前の空港はあとかたもなく、巨大な空港、そして便利な空港が出来ています。
 上海万博、最大規模の万博になるそうです。弊社でもツア-を作って、古い上海と新しい上海、皆さんと楽しみたいと思います。是非今年上海へ行きましょう。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−091 3月 ホームスティ交流×2 2010年04月05日 

 お蔭様でこの3月は大変忙しい月でした。すべてが学生の団体です。春休みは、短い分、予定が立てやすいのかもしれませんが、弊社では、得意とする「ホ-ムステイ交流」が2団体有りました。1つは25年、継続してきた交流です。北京での25周年記念式典が有り、盛大なものになりましたが、偉い方々のお祝いの言葉より、25年間この交流に実際に参加したOBの話、現役の学生の感想、心を打たれるものが有ります。
 日頃からこの交流が、子どもたちにとって、大変な過酷なもの、と思いつつ、乗り越えた時に、感動と経験が子どもの力になると確信している私には、過去の思い出と共に、「良く頑張った」と1人1人に拍手を送りたい気分になります。
 実際、行く前の不安げな顔と、終わった後の顔と、その違いを毎年見られるだけで、幸せな気持ちになります。今年ももちろん、ありました。そのお話は、話題を変えてご報告します。皆さんありがとうございました。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−090 3月その① 2010年04月05日 

 私がお世話している子どもたちはただ単に行って、ホ-ムステイして、そして感動して、と言う簡単な道ではありません。行く前に、事前の勉強、オリエンテ- ション、説明はもちろんの事、相手のある事ですから、お互いに責任ある子どもたちの名簿を突き合わせ、相手を決めます。よって、だれでも彼でもではなく、信頼できる団体や学校同士がこのホ-ムステイ交流を行います。しかしながら文化の違い習慣の違い等が有る訳ですから、多々問題は発生しますが、それはお互いの信頼のもとに必ず解決します。
 まず中国では、このホ-ムステイをかなり高いレベルの交流と位置付け、保護者への説明を細かく行います。又来る団体の説明や、その意義等も生徒に話します。受けた生徒にしてみれば、どんな学生が来るのか、興味深々ですし、親御さんも受け入れ準備で、あれこれ大変です。中国には、「朋遠方より来たる、又楽しからずや」と言うように、友人をもてなすのは、大変嬉しい事と有ります。まだ見ぬ友人ではありますが、その団体名や学校名により、毎年の事ですからやはり親しみを持って待っていてくれます。
 少なくともこの交流に参加してくれる双方の学生は、「相互信頼」の中で、守られ、その体験が出来るのです。その事を考えるとやはり「継続は力なり」です。 25年と言う歳月、7年と言う歳月、簡単に作られる物ではありません。
 是非、今後チャンスが有れば、中国へのホ-ムステイ交流に参加してみて下さい。待っています。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−089 3月その② 2010年04月05日 

 中学3年生をホ-ムステイ交流へ連れて行きました。高校受験がない為、この時期と言うのも1つの理由ですが、長年この交流をやって来て、「効果」が有るのが、中学生時代かと思っています。小学生の時は「楽しかった」の感想が多いです。中学1年生の時は個人差が有りますが、2年3年となってくるとどうしても将来は何になるとか、大学受験とか、が、目の前に来る年頃です。そんな時に、中国の同世代の学生が、とにかく「勉強」している様子、自分の将来がはっきりしている様子、半面、自分のしゃべった英語が通じなかった、上手くコミュニケ-ションが取れなかった、と体験し、「やっぱりやらないといけない」と自分で感じる事が出来るのです。
 この時期の子どもたちにとって、自分自身で気づく、と言う事は大変大きい事だと思います。
 もちろん勉強だけではないのですが、勉強をやる時期でもあります。学校ではなんとなく、「やらなきゃ」と思いつつ、きっかけがなく、又ジレンマもあり、そんな複雑な年頃、本人は何かのきっかけが欲しいと思います。
 中国は外国です、しかし、隣の国です。お隣は何しているか、知る事も必要です。だからまだ守られている環境の中、こういう過酷な体験をする事は、冒険ではありますが、やってみる価値はあると思います。全員が全員感動で、みんな勉強するようになった等とは言いません。しかし何か感じて、何か気付いて、いつか花を咲かせてくれると思います。帰ってきた学生の顔が、行く前の顔とまったく違い「みんな前を向いている」と思いました。下を見て歩くのではなく、前を向いて、上を向いて堂々と帰ってきました。いつか、将来、「楽しかった」と言ってもらえたら嬉しいです。お疲れさまでした。そしてありがとうございました。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−088 3月その③ 2010年04月05日 

 この3月、忙しい毎日でしたが、弊社には、長谷川さんと言う力強いスタッフがいます。しかしながら、3月は取り扱っている人数も人数で、やや、「人手」の面では、不安と言うか心配が有りました。もちろん中国では、部分部分、現地のガイドさんにお世話になりましたが、私には、物足りず、「役に立たないガイドなら、いらん!」という具合に私のわがままに付き合ってくれる人と言うのは、なかなか居ません。今回は北京事務所の王さんが急用の為、北京に居ませんでしたので、以前弊社で働いてもらった「山下さん」(旧姓中里さん)が急遽、駆け付けてくれました。
あの団、この団、と動き回ってくれ、大いに戦力になりました。今は天津に、ご主人と暮らしていますが、私の無鉄砲さも了解済みなので、それなりに動いてくれ、彼女が会社にいた時を思い出しました。丁度「サ-ズ」の時で、仕事もなく、と言ってもすべて「中国旅行延期」を余儀なくされ、手持無沙汰で、2人毎日出勤するも、仕事の電話もなく、あえてパソコンで、仕事のふりをしていました。やはり仕事がない会社には居づらなかったのでしょう。1度退職し、今回は中国で、手伝ってもらう事になりました。
忙しい3月、一応活気にあふれている弊社の事をものすごく喜んでくれ、電話1本で駆けつけてくれる人がいると言う幸せに、ほっとしています。船の旅行も 321名でしたが、我々2人の他、友人や元旅行社の同僚等に手伝ってもらい、やり遂げました。社会に入ると持つべきものは「朋」と思います。この3月乗り切れたのは、周りの温かい応援とお客様のご理解だったと心より感謝申し上げます。ありがとうございました。                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−087 読 書 2010年02月05日 

 皆さん、読書はしていらっしゃいますか?私も「本」を読む事が好きで、時間が有れば、本屋さんへ立ち寄るタイプです。しかし、読んでいる割には頭に入っていないと言うか、覚えていないと言うか、感覚で、本を選んだり、読んだりしているらしく、良く同じ本を2冊買う事が有ります。特に月刊誌がそうです。よって、その1冊は、会社に持って行き、(家に置いておくとバレて怒られる)長谷川さんへ差しあげる事となります。しかし家人に言わせると、私の読書は「睡眠薬」なのだそうです。本を読むために、早めにベッドで、灯りをつけ、読み始めます。これが私の大変素晴らしい時間なのですが、いつの間にか眠ってしまうのです。本に囲まれ、眠ると言う、大変実用的効果で、毎日を過ごしています。もっぱらその灯りを消すのは、家人2人の役目です。時間帯も決まっているらしく(本人には分かりませんが)その時間が来ると2人で掛け合って、灯りを消しに、入るのだそうです。ですからこの2人にとって、読書、とは言わず、「寝るだけの為の作業」だそうです。明日の休みも、読むぞ~!!(寝るぞ~と言う事らしい)

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−086 オーロラ  2010年02月03日 

 度々、この「オ-ロラ」の話をし、その写真家の中垣さんのお話もさせて頂いております。その甲斐あって4月に、島根・鳥取にて、いくつかの講演会をしていただく機会が出来ました。中垣さんのお人柄でしょうね。「是非!」と言う方々が、声をかけて下さり、我友人の学校「松江開星高等学校」でもお話して頂く事になりました。「縁」に恵まれ、本当に感謝です。
私は世界中というか、海、山、大地、砂漠等自然界の大自然の風景は、大体見ています。
人生観が変わる位の世界の素晴らしさ、やはり旅は、建物を見に行くのではなく、「人」とか「自然」の方がインパクトがありますよね。そこで、今度は是非「オ-ロラ」を見たいものです。
これは自然と言うより「宇宙」ですね。人間界から飛び出た風景でしょうね。
今、いつも、「行きたい」と念じています。先の友人や、「閑」と「お金」が有りそうな友人に声を駆け回って、仕事というより「趣味」として、一緒に行きたいと念じています。興味のある方は是非声をかけて下さい。お待ちしております。一緒に行きましょう。

                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−085 仏 像 2010年02月02日 

 今やちょっとした「仏像ブ-ム」ですね。テレビでも特集をしたり、又見方等の本も出たり、お寺へはお参りに行くものだと思っていましたが、最近は「仏像」を見に行く若い方も多いようです。
日本での阿修羅展は各地とも記録的な動員数だったと聞いています。私が知っているお寺にもたくさんの仏像が有りますが、中でも「楊貴妃観音」と言う名前は聞いた事があると思います。京都泉涌寺に有る需要文化財の仏像です。そのお姿は楊貴妃のように美しく、又別の言われでは、「楊枝ようじ観音」が、「ようきひ」に換わったとか言われております。普陀山には、このような仏像はすでに無く、(ある時すべて破壊された?)国宝級の有名なものは石碑に彫られた「楊枝観音像」です。
今では、拓本を取る事さえ禁止され、一般公開もされず、ひっそりと普陀山のお堂の中に保存されております。今度何かの機会が有れば、是非日本でこの楊枝観音を公開したいものだと、少し思っていたら、少し希望が見えてきました。又発表したいと思いますが、1体、自分の好きな仏像があると楽しいかもしれません。ちなみに、楊貴妃観音は普陀山から請来したものだと発表されました。どこにでもご縁は有るものです。合掌
                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−084 お 札 2010年02月01日 

 お正月と言えば、「お年玉」ですね!もらう方からあげる方になりましたが、それも又嬉しいものです。
日本では、「新札」を渡しますね。そう言えば、行きつけの美容室は、おつりは何時も「新札」です。日本では、一種のマナ-と言うか、これも文化の一つでしょうか。
しかし、中国は違います。私の思いだけかもしれませんが、北京の王さんから教わった事です。「新札」だと、人は「偽札?かも」と一瞬疑うようです。中国には偽札が有ります。14億の人間、他国との陸続きの国、いろんな人がいますから、100元札をもらった時は、皆さん「透かし」を覗きこみます。中国では、受け取った時点で、きちんと言わなければ、その人のミスになるのです。ですから買い物の際に、自分の出したお札をじっと見られたり、又は偽札防止の機会にかけられたりすることは多々あります。これは中国では普通の事ですから、いやだな!と思わないでください。よって新札だとその確率は高くなりますね!ましてや、第1回目に使用するものですから、余計にじっと見られます。
よって中国の場合、お年玉やさい銭等、新札でなくても構いません。むしろ問題は、その「色」です。
一番大きい額面のお金は「100元=約1400円」です。この100元札は、「赤」です。
そうなんです。赤は中国人の好きな色、縁起の良い色、とも言えます。ですからお年玉は、縁起も担いで、100元札、そして枚数、中国での好きな数字は? 8とか9とか、ですね。それも関係してくるかもしれません。そう言えば、私が関わっている普陀山でのおさい銭は小銭ではなく、この「100元」です。縁起を担ぐのと同時に、めったに行けない佛教聖地ですから、皆さん思いを込めてお賽銭にします。 「文化」は、色々な面を持っていますね。
                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−083 春 節 2010年01月29日 

 春節(しゅんせつ)と読みます。中国のお正月の事です。今年は2月14日、日本ではバレンタインデ-ですね。中国も最近は、バレンタインデ-が有名になって来ておりますので、重なり楽しい1日となると思います。中国は、今も行事は旧暦で行っていますので、1月1日よりもこの旧正月の春節が1年で一番、楽しい、嬉しい日です。遠くへ行った家族が帰ってきたり、そのお土産の準備をしたり、レストランを予約したり、年賀状もこの時期です。まったくそういう意味では日本の正月の過ごし方と同じです。

この3月に弊社のプログラムに「ホ-ムステイ」の企画が有ります。学生たちが、北京の子ども達と3日間、一緒に過ごすプログラムです。すでに自分の相手(ホスト)が決まり、みんなに「年賀状書いたら」と提案しました。今頃、14日に向けて、色々と英語、中国語、日本語、駆使して、カ-ドを書いていると思います。中に、その近辺に、ホストのお誕生日がある子どもがいました。一言「お誕生日のお祝いも書いてあげたら喜ぶと思うよ」と声かけて置いたら、早速取り組んでいるようです。「北京に手紙着くまで何日かかりますか?出来ればその日にぴったりに届くように手紙を書きたいので」と言ってきました。もちろんそれは誰も決定できない日数ですが、その気持ちは伝わると思います。人はやっぱりやさしいと感じました。楽しい春節になると思います。
                                                  林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−082 やきいも 2010年01月25日 

 この時期、温かい「やきいも」が食べたくなりますね。実はこの焼き芋で、1つ、お話が、、、。
今朝、駅の階段にて偶然にYさんとお会いしました。「おはよう!!」と言う声を掛け合いながら、3年前の出来事思い出しました。駅へは、自転車で通っているのですが、駅前の駐輪所に自転車を止め、駅に向かい、改札でふと「財布と定期」を忘れた事に気づき、再度駐輪場に戻り、家へ帰ろうとした時に、この方に、呼び止められ、「どうした??」との言葉に、「これこれしかじか」と、そしたら「千円貸してやろうか!」との声、悪いとは思いつつ、1.000円お借りし、会社へ行きました。
(中国では社長と言う物は絶対に運転手付自家用車らしく、ママチャリ通勤の私の話はびっくりらしいです。)
帰りに、ふと八百屋でおいしい焼き芋を見つけ、それを買って、Yさんへ、借りた1.000円と利子代わりに焼き芋を、受け取って頂きました。それ以来毎朝駐輪所での会話から、私に時間がある時には、いつも仕事の話をつい、話込み、いつしか「俺も中国へ行きたいな」と言う話になりました。
きっと定年後のこの駐輪所の監視員のお仕事だったと思います。それからお見かけしなくなり、今朝久しぶりにお会いしました。どこに住んでいらっしゃるか、どんな方か、今となっては、知る事も出来ず、一時のお友達です。これも焼き芋の取り持つ「縁」ですかね!
                                                 林 淑英

ページTOPに戻る

 エッセイ L−081 華林新聞 2009年12月25日 

 新年明けましておめでとうございます。
今年もこの1年が皆様にとって良き年になりますよう、心よりお祈り致しております。

今年も又、華林新聞をお届けする事が出来ました。毎年色々な形でのご愛顧と応援、誠にありがとうございます。
お蔭さまで、最近は少しづつ仕事にも幅が出てきたような気がします。昨年もたくさんのお客様と出会い、又たくさんの事学ばせて頂きました。日々精進、日々成長、会社設立22年になりますので、自分たちの事だけでなく、人のお役に立てるような活動もしていきたいと考えております。
幸い、私達には「普陀山」という一つの目標が有ります。昨年発足しましたNPO法人普陀山佛教文化交流協会を有意義に活用して行こうと考えております。どうぞ日々の旅行計画はもちろん、日本と中国をつないだ
「慧蕚大師」のように、多種多様の文化交流を行っていきますので、温かく見守ってください。

皆様のご健康とご多幸をお祈りし、本年も何とぞ宜しくお願い申し上げます。               林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−080 ホームペ-ジ 2009年12月15日 

 「ドリ-ムウエーバ-」というソフトを購入、さすが人任せにはできないと、そのソフトを前に、毎日ため息ついております。御承知のような性格ですので、「誰か助けてくれないか!」と、心で念じながら、今日か、明日か、とにらめっこしております。

 表紙の農民画は、毎月季節に合ったもので変わるようになっておりますし、所蔵の農民画も更新されるようになっております。後は中味の事ですが、、、このエッセイも、自由に掲載できるよう、がんばります。

 そんな訳で、長い目で、見守って頂くようお願い申し上げます。
                                                 林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−079 オーロラ 2009年12月15日 

 「オ-ロラ」って見た事は有りますか?私は長居海外出張生活の中で、1回も見た事有りません。威張って言う事ではないですが、「いつかは見たいな」と思っています。今日ご紹介する「中垣さん」は、このオ-ロラの写真家で、その魅力に魅せられ、毎年海外を飛び回って写真を撮っていらっしゃる方です。

 1度も見たことないオ-ロラと、どうして華林が、、、という事は置いておき、やはり人間は何かのご縁が有るのです。

 そこで今週11/29.30と、新宿と藤沢にて講演会とオ-ロラの撮影上映会が開催されます。

 あいにく、不在にはしておりますが、今からお問い合わせとか期待感がいっぱいで、絶対にご満足いただけるのではないかと思っています。

 人生で何もしなくても生きていけますが、でも何か、動く事で、喜びや楽しみ、そして失敗、経験が一番身に応えると思います。最近ちょっと「失敗」が有り大きい声では言えないですが、落ち込んでいました所、「つれあい」から「失敗が次につながるんだ」と励まされ、自分の身に置き換え、次は、こうしないぞ!と意気込みました。

 但し若い時の失敗は、買ってでもしろ!と言われますが、この歳とキャリアでの失敗は、さすが答えました。

 このオ-ロラが、その失敗を少しでも助けてくれる事になれば、うれしいです。
                                                 林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−078 人形 2009年12月15日 

 以前、有る方から「ひな人形」を頂き、中国の学校へお土産として持って行った事が有ります。日本のひな人形は、まさに「日本」を代表する文化と美が詰まった素晴らしい作品であり、海外では大変喜ばれます。

 しかし昨今の家庭事情からでしょうか、三段飾り、とか五段飾りなどという大きい雛段は消え、お内裏様とお雛様、だけを飾るようになってきたようです。

 京都駅で、「職人」さんが、古いお人形を修理して、リメイクしたものを外国の方々へ、安く売る、という試みをしておられました。

 見違えるほどきれいな人形が、非常に安い料金で、販売されているのです。

 なかなかよい方法だと、感心して見ていました。

 時を同じくして、再び、私の手元に数十個の人形が届きました。「さて!」と考えましたが、まずは、リメイクして海外の方にプレゼントしたいと、今お願いしている所です。

 物を大事にする気持ち、海外の方を思う気持ち、そして日本文化を紹介する機会、やっぱり日本って良い国だと思います。

                                                 林 淑英

ページTOPに戻る
 エッセイ L−077 光華寮 2009年12月15日 

 先日、京都北白川にある「光華寮」を訪ねました。

 知る人ぞ知る、「中国人留学生寮」ですが、京都外大での4年間、ここで暮らしていました。政治的な背景の有る寮では有りますが、今更ながら、この寮がなければ、京都へ出してもらえなかったと思いますし、何らかの「縁」を感じます。

 良く人に言う事に「縁」という言葉を使います。

 高校生の時に先生からの立ち話で「中国語勉強したら良いじゃないか」の一言で、中国語学科を受験し、「光華寮」に入るのだったら「島根を出ても良い」と言われ、その気になり、この寮に入りました。見ると聞くのとは大違い。叔母がここでいわゆる恋愛をし、華僑同志で結婚した事に始まり、父の頭には、「ここで良い人を見つけてくれれば」という思いが有ったのは、事実です。我々在日の華僑にはなかなか恋愛の機会もなく(華僑同志の)、年に1回の「御施餓鬼」の時には、青年会と称して、日本全国から親に連れられ、サ-クルのような合宿生活をして、「恋愛」を探していました。もちろん大学4年間、この寮で色々な思い出が有ります。

 しかし今は、ひっそりと次の世代にどのように引き継がれていくのか、待っています。
                                                 林 淑英

ページTOPに戻る



 エッセイ H-004 チベットに行ってきました!! 2010年06月08日~16日 +おまけの1日 

 ず~っと憧れていたチベットに、添乗に行けるチャンスが巡ってきました!!
西寧から青蔵鉄道に乗って一路ラサへ!私の永遠のライバル、ある取引先の営業マンは果たしてこの鉄道に乗ったことがあるでしょうか・・・しかも一等車!各ベッドにテレビ付!!華林で働いていて良かった~~!!!
不敵な笑みを浮かべていたら、いつの間にか列車は予定時刻の20時50分に西寧の駅を出発しました。

  各ベッドにテレビ付 各車両に洗面所が一つ 酸素吸入口と酸素チューブ

 朝、07:00頃目を覚ますとゴルムド駅(標高2829m)に停車していました。ここで20分の間に、牽引する機関車が交替し、いよいよ列車登山開始です。車内が密閉され、酸素の供給が始まるので、喫煙者はみんなここで最後の一服を楽しんでいました。

  食堂車 朝 食 車内案内も放送もチベット・中・英語で

 09:00頃に雪山玉珠峰、6千メートル級の昆倫山脈、高地では世界最長の昆倫トンネル(標高4648m)を抜け、ココシリ自然保護区に入りました。ここでは野生のシカ・ロバ・カモシカ・ヤク・クマが見られます。各車両には2名の女性の車掌さんがいて、仲良くなると見所が近づくたびに教えてくれます。

 12:00世界最高地にある風火山トンネル(標高4,900m)を通り12:30頃に長江の源流であるトト河を横断。

  ココシリ自然保護区 野生のシカ パンダはいないか! 中国の母、長江の源流 トト河

 15:00に世界最高地にある駅「唐古拉駅」を通過します。以前は記念撮影用に停車したそうですが、列車に乗り遅れ、駅に取り残されるという事態が頻繁に起こったため、今では「ゆっくり通過」となりました。

  最高峰のタングラ駅(5072m) ツォナ湖 放牧地

 16:30に聖なり湖ツォナ湖を通過するあたりで、お客様が1名体調を崩され、大事をとって列車内のお医者さんを呼ぶことに。白衣も医療鞄ももっていない、普通のおじさんがやってきて問診、あっという間に体温と血圧を測り、大きな異常無し、ということでひと安心、ついでに私も血圧を測ってみましたが、高所では血圧が普段の半分ほどになり、体温もぐっと低くなります。

 その測定で、私の体は完全に高度順応しており、現地の方々と全く変わりなく機能しているらしいとわかり、そのお医者さんに「ここに住めば?」と言われました。まぁ、それもいいかな。だってこんなに素晴らしい景色が!!

 砂漠や橋・トンネル・万年雪の平原・富士山の倍もある山々、牧草地に湖、20:30頃にはきれいな夕暮れ・・・と息つく間もないほど、素晴らしい景色に圧倒され、「あの営業マン」はこんな景色見たことないだろうな!と不適に笑っていたら、いつの間にか列車は予定時刻の21:40にラサ駅に到着しました。

 次回はラサの景色をおとどけします。                長谷川

ページTOPに戻る