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 エッセイ L−028 その次 2008年07月30日 

 1933年6月1日神戸港に上陸、すぐに千葉市に移動し、先に来ていた華僑の友人と共に衣服の行商を創め、1937年島根県大東市に移転、衣料品店を営む。その後1947年に現在の出雲市にて飲食業を創め、現在に至る。(という事はこの家は70年になりますか!)

 と有ります。私はいわゆる「中華料理店」の娘で、この1947年に出雲にて「五十番」という中華料理店が始まりました。華僑は世界中に居ますが、「料理店」「床屋」「衣服店」の3つの業種が多いと聞きます。つまり「包丁」「かみそり」「はさみ」と、刃物を持つ職業はいわゆる「卑しい」とされ、当時の在日外国人には、逆に許された職業でした。料理店は自分の食事をもう少し多く作って人に食べさせ、利益を得る、髪を切るのは、器用な中国人にとっては簡単な事、刃物を使う衣服店は、当時の中国人の持ってきた服や布を売る事、そんな簡単に出来る仕事が、当時の祖父母達華僑の職業となり、この外国の地日本にて商売をして、そして家まで建てている、これが私のル-ツです。

 日本語もできず、唯一できるのは「福清語」(福建省の地方の言葉)今ではもうしゃべれる方もいないでしょうね。父も単語しか覚えていません。祖父は生きていれば105歳、1903年生まれでした。祖母は1914年、11歳違いの夫婦だったのですね。祖母は皆さんご存知かどうか分りませんが「纏足」(てんそく)していました。そうです、脚が異様に小さく、小さい脚が美人とされ、又良家の淑女と言うか、まあ、働かない女性と言うか、本当に動かない人でしたね。(脚の甲を縛って、大きくならないようにするのですが)その為、祖父と父は、良く働き、祖母は毎日その売り上げを楽しみに数えていたそうです。今でも覚えているのは、祖父がなくなった時は1か月位泣き通しでした。いわゆる「泣き女」と言うか、泣く事が、死に対する唯一の悲しみの表し方、表現でしかなかったのではないでしょうか!毎日ベットで泣いていました。私とは、一緒に「子供用の黒い靴」を買いに行った事、それだけが彼女が外出する理由でしたので、それを一緒に行くのは子どものわたしの仕事でした。(今思えば外出もあまりしていませんでした)買い物などは、当時、田舎の行商のおばさんが家に出入りしていて(魚屋/八百屋共)「帰る前の一番最後にうちに立ち寄って欲しい、全部買うから」と最後の最後まで値切り、兄弟8人の生活を支えていたようでした。まさに男が働き、祖母は家を守り、子沢山のある意味幸せな家族だったのでしょう。

 思えば、お手伝いさんも居たので、それなりの家だったと思いますし、その当時この家を建てたのですから、たいしたものです。孫の中で一番大きいのが私でしたので、一番かわいがられ、又会話なども鮮明に覚えています。当時は大きく感じたこの家ですが、まさか又このように関わるとは思いませんでした。ここには書けない位、一杯思い出したこのひと時です。

 

 エッセイ L−027 自分のルーツ 2008年07月27日 

 この数か月の間に、何度か実家に帰り、自分が小学生まで暮らしていた実家を改めて「自分の家」と認識するまで、しばらく時間がかかりました。出雲から松江に引越しをしており、この家は祖父母の家と思っていましたが、長男である父がそのまま現在も住んでおり、この家が既に80年近い年月を経ている事が分りました。柱は黒光りし、きっと床下はシロアリの巣かも知れません。二階へ上がる階段は、きしみ、電灯の上は埃だらけ、全くどこから手を付けたらよいか分かりません。かろうじて両親の部屋は、何とかリフォ-ムして住んでいますが、その他の部屋は何かすると崩れるような気がして、帰省の度に「どうしよう」「結局何も出来ない」という繰り返しでした。しかし、お伝えしたように、母の病気の事もあり、段差の無い板張りの「リフォ-ム」の必要性が出てきました。

 近い将来は取り壊しになる可能性がある家ですが、それまで、母はどうしても「車イス」を意識しなければならない状況です。よって思い切ってリフォ-ムをしました。と同時に各部屋の掃除、掃除屋さんにお願いする以前に、掃除しなければ、と、この夏、やりました。ものすごい埃とごみ(両親にとっては捨てられないものらしいですが)、捨てたくないのは分りますが、やはり思い切って捨てないと片づかない、分って頂けますよね!とにかく働きました。よく言えばこれが唯一病気の母にしてあげられる事だったかも知れません。

 終わったところで、出てきたのは「祖父母の履歴」でした。ご承知のように私は日本生まれの日本育ち、いつ中国から来て、何しに来て、そしてどうした、という簡単な事実さえ何一つ証明されたものを見ることなく、至現在、でしたので、この記録が見つかったのは、まさに「お宝」でした。次はこの話題です。

 

 エッセイ L−026 オリンピック 2008年07月26日 

 いよいよ後数日で開幕です。巷での悪評は未だに耐えませんが、何でも自由なそして経済大国の日本に居る方々には分らない現地「中国」でのプライドと意地を掛けてのオリンピックです。私は、この中国の歴史的な瞬間にその場に居たいと、7日に北京へ向かいます。8日のカウントダウンは天安門広場にて、大勢の中国人に混ざり、何が行われるのか、どんな思いがあるのか、そして何が起こるのか、自分で見極めようと思っています。もしテレビ中継があれば、その中に私が居るという事で、見ていてください。

 私の友人と言うか知り合いにオリンピック委員会の副会長が居ることはお知らせしましたね。2年前北京で是非会いたいと連絡を受け、重苦しい(セキュリティ)専用の部屋で、お会いしました。今思うと、あまりに偉い方なので、何をしゃべったか、(本当は「開幕式の入場券」が欲しかっただけなんですが、)オリンピックは中国開催だけど中国だけでは何も決められず、世界のIOC委員による決定事項が多い事、中国での開催について、ものすごい労力と決定機関があり、此処まで来るのには、想像できないくらいの大きい障害や困難があった事、諸々、話を聞きました。力に圧倒されてというか、その権力と実力とその力量すべてが世界レベルと言うか、まさに私の個人レベルのお願いは言い出せませんでした。かろうじて「私は元気に中日友好の仕事をきちんとやっています」としか言えませんでした。それから2年、まさに始まりの時です。この北京IOC関係者にとって、何年も掛けてきた国家プロジェクト、世界が何を報道しようが、実際に関わってきた方々にとってはまさにこの日の為に!です。

 だから誹謗中傷妨害、そんな事は行う前にまず誰を指してそうやるのか、一度考えてから行って欲しいと思うのです。個人レベルではなく国家レベル、個人のねたみ誹謗中傷を、世界の行事に持ち込まないで欲しいともいますし、その方々には別の手段も有ると思います。

 オリンピックを邪魔しないで、という一言に尽きます。楽しみにしている世界の人々、此処に出るために頑張ってきた人、裏方として協力してきた人々、そんなたくさんの人をがっかりさせるような事態がないこと、そして世界の良心が、中国に集まって、すばらしいスポ-ツの祭典になるよう、祈って、開催を待ちたいと思います。


 エッセイ L−025 母の事 2008年07月25日 

 昨年12月、母から「目がかすむようになった」との連絡が有りました。老人特有の白内障、とか、かすれ目とかだと、だれもが思い、眼科病院へ。しかしながら結果は、目の奥に「膿」があるようだとの診断。すぐに大学病院にて検査入院、結果は、悪性がんの進行性の早いもので、至急の手術、場合によっては、頭部の切断手術もある、という深刻なものでした。病院の検査から手術まで、わずか4日、病院からの説明がそのまま手術の説明となり、「最悪」の事態もありうる、というものでした。これが今年の2月の出来事、そして今は7月が終わろうとしています。

 結論から言いますと母は一命を取りとめ、おととい退院しました。しかしなんと退院した次の日、昨日、脚を滑らせて、骨折、すぐに又入院です。本当は深刻な話なのですが、此処まで来ると笑ってしまいます。この入院中、母は母なりのユ-モアと頑張りで、約半年、頑張ってきたと思います。薬を飲むときも放射線をする時も、手でOKのサインをし、自分なりに自分を納得させての処置を行ってきました。「進行性の癌」が放射線にて進行が止まったのも、普段は大の薬嫌い、何があっても自分の体で直す、そして何よりお産以来病院へ行った事のない、けがれなき(?)身体、強い薬が大いに効きました。飲めない錠剤を子どものように砕き、オブラ-トで包み、飲んだ後は顔をしかめて、まるで子どもと一緒でした。長い、長い療養が終わり、やっと先生から自宅へ帰ってよいとの命を受け、リハビリの為にリフォ-ムした新しい部屋に入り、介護保険の月1500円の高級ベットに眠り、その目覚めた朝の事です。雨によって入れ忘れた洗濯物を取り込もうと、庭に出て、そのまま「スッテンコロリ」でした。救急車で運ばれ、そのまま入院、退院したばかりの病院は満員の為(科もちがいますので)出雲のもう一つの大きい病院へ。何と言う事でしょうか。

 この一連の状況、本来ならば、娘として慰めの言葉も掛けてやらねばなりませんが、あきれて、情けなくて、そして何より「母らしい」出来事としてしか受け入れられない私です。

 なぜかというと、このエッセイのすべての部分が私にも当てはまるのです。

 この入院中の母の行動、言動、そして思い、すべて「私はやっぱりこの人の子どもだ」と感じたものです。良い、悪い、悲しい、淋しい、情けない、すべての思いがこの半年私の中に在りました。そしてこの現実の中、いつかは誰でも迎える人生の一コマなんだと、納得して、この8月は北京へ行きます。

 

 エッセイ L−024 同級生 2008年06月25日 

 昨日、故郷の島根から中学、高校、と同級だった、友人と、食事をする機会がありました。この友人をOさんとしますと、当時優等生だったOさんと比べ、私は目立たない1学生、結構コンプレックスが有ったのですが、社会人になった今は、そんな事も感じさせない、(私は結構ドキドキしながらおあいするのですが)時間の経つのも忘れ大いに飲んでしゃべりました。

 実は彼は地元の私立中学高校の校長先生、いわゆる名士です。今回の上京も、「講演会」だったようですが、さすが、話には内容があるし、面白いし、持つべきものは「友」、とつくづく感じました。

 私はあまり故郷の同窓会には出席しないのですが、ある時、同窓会のはがきに「参加できませんが、又皆さんとお会いできれば。お誘いありがとうございました」と、幹事の岡田君に返事を出したところ、上京の折、渋谷の会社に来てくれました。彼は新聞部だったので、どんな感じか分りますよね!

 何でも好奇心があり、行動的で、面倒見がよく、仕事もバリバリ、私にも、「松江で仕事できるといいね」と、県庁を初め、色々なところに紹介してくれたり、世話を焼いてくれました。ある時は、「中国旅行は大丈夫?」と突然電話くれたり、精神的に大変な時期(中国のサ-ズの時です)に助けてくれました。彼が昨年突然、「癌」でなくなり、今回のOさんと一緒にお墓参りをした以来一年ぶりに会いました。もちろん会話の中でもこの岡田君の話は出てきて、こういう時、やはり同級生は良いものですね。飾らなくて良いし、ほのぼのと田舎の話が出来るし、美味しいお酒が飲めました。

 共通合言葉は「体に気をつけて楽しんで仕事しよう!」という事、この時に「楽(らく)する、と楽(たの)しむ、と同じ漢字だけど、すごく違うよ」と、言われた事。

 さすが校長先生、生徒さんにもいつもこんな風に説得力のある言葉で教育しているんだな!とまたまた勉強になりました。もつべきものは、「友」です。 ありがとう!!


 エッセイ L−023 「恵萼エガク」 2008年06月24日 

 この名前を知っている方は弊社の古いお客様か、或いは私の書いたもの読んでいらっしゃるか、それとも仏教史に造詣の深い方か、だろうと思いますが、言うまでも無く中国4大佛教聖地「普陀山」の開祖と言われております日本人僧侶の方のお名前です。詳しくは、又中国観音霊場会並びに、世の中に発表される機会も有ると思いますが、先日朝日新聞(4/26)で「関東学院大學田中史生先生」を知りました。現在この恵萼の研究者として、中国へはもちろん日本各地の墓標や遺跡を訪ねて、数々の文件を研究していらっしゃいます。

 この度、中国観音霊場会でも普陀山友好部会というものが出来、今後の普陀山との交流或いは研究など、日本側からの支援と協力、そして各種の交流事業を行うことが決まり、現在活動をしております。その中でやはりこの「恵萼エガク」の存在があったからこそ、日本とのご縁ができたものと思いますし、私も今現在こういう佛教交流の仕事が出来る訳です。

 先生がおっしゃるには、今後この恵萼の存在が明らかになり、皆さんの前に発表されると、日本、中国、韓国の3か国の佛教交流の深さ、繋がりの大きさ、そして歴史的な出来事の中にあっての三か国の繋がりがより明らかになり、現在のアジアの国々にとって、非常に大きい存在になるだろう、という事でした。とてもうまく言えませんが、あと1、2年したら先生の論文が発表されると思います。その時に、普陀山との交流事業が又大きく花開き、我々のやってきた事業が実を結ぶことと思います。是非今後田中先生の論文発表を楽しみにしておいて下さい。霊場会寺院でも、協力して、取り組んでいく予定です。お楽しみに!!!


 エッセイ L−022 20年 2008年06月24日 

 我社の設立20年前の5月だと言うことは、お知らせしたかと思います。20年だからどおってことはないのですが、めったに無いことなので(?)何かしたいな!と思っています。しかし、タダお酒飲んで、しゃべって、と言っても、弊社のお客様は全国的なので、東京でやっても、あの方々に申し訳ないな!と思っております。(けっこう、義理堅いのです!)

 そこで、我社のプリンセス、長谷川にふと目をやると、「もう一つ大事なこと!」を思い出しました。
彼女以下、弊社にはこれまで数人の女性が私をサポ-トしてくれました。幸いにも、彼女たちの内、たぶん1人を除いては、幸せな結婚をしております。不明の1人は、怖くて聞き出せない状況ですが、東京で、元気に幸せになってくれていると思います。)
そうなんです、この長谷川もまだ独身

 私は、女性なら1度は結婚を、そして離婚しようが、1人でも子どもを生むように、大変だったら、私がサポ-トする!と言い続けております。女として生まれてきたら、やはり生涯の伴侶を、そしてかわいい子どもを、がモット-なのですが、、、。(最近は自分の子どもの反抗期に出会い、このことが、先のモット-を揺るがせておりますが、この場は置いておいて!!)。

 そこで、これまでに3組を縁結びに導いた、私事(出雲出身)、りんが、「此処で立ち上がらねば、どうする!」と、「創立20周年記念出会い感謝パティ-(仮称)」を開催しようとたくらんでおります。

 今の世の中、携帯の出会い系サイトでの諸々が多く、男も女も、まあ、見つかれば結婚しても良いけど!なんて、消極的と言うか、おとなしいと言うか、「まじめに考えろ!!!」おばさんのノリで、真剣に考えております。

 もちろん、弊社のプリンセス、長谷川も、その中の1人ですが、何せ「絶対にお金持ちと結婚しろ!」と言い続けている私ですから、なかなかハ-ドルも高く、誕生日に大台、若干○○歳になるのですが、この娘を筆頭に、私の周りにいる、「良い男女」を引き合わせようかと、たくらんでおります。

 時期は、人恋しくなる、12月、まさに世の中は、クリスマスを控えて、みんなが、少しあせっている時期、弊社の東京の古いお客様も、「ノル!!ノル!!」と言ってくれ、「司会は任せておけ!」と。

 そして、知り合いの芸能人関係者も日頃の恩を感じて、絶対手伝ってくれるだろうと、勝手に考え、「○○芸能」から「お笑い若手芸人」を無料にて引っ張り出し、結構、手はずは整ってきました。

 いざという時には、私には大勢「未婚の従兄弟」(伯父叔母8人/その子ども)がいますので、数は何とかなるだろう、信用も何とか有るだろう、と、現在着々と準備をしております。

 興味のある方は、是非覚えておいて下さい。細かい日時が決まりましたら、このHPにてお知らせ、ご招待します。但し条件は、①未婚②私と面識のある方③結婚をまじめに考えている人、(現在、過去、未来含めて)。

 皆さん宜しくお願いします。


 エッセイ L−021 6月23日 2008年06月23日 

 6月23日、昨年のこの日は、我社にとって、忘れられない日付となりました。
手前味噌、なのですが、昨年の6月23日、広島宇品港から、豪華客船「ふじ丸」をチャタ-し、中国普陀山へ、船の旅を催行した出発の日です。

 このHPご覧の方々の中にもご参加いただいた方がいらっしゃるのではないかと思いますが、総勢321名(反対から読むと1.2.3覚えやすいでしょ)、弊社の1年分のお客様と言っていいほどの方々が、朝から広島へ続々とバス、新幹線でいらっしゃり、受付をして、セキュリチィ-を通り、各自お部屋へ、と、思い出すと切りが無いほどです。
よって我社にとっては、6月23日は会社創設以来の大事な日となっております。

 しかし、昨年が猫の手も借りたいほど忙しかったので、それ以来、我社の口癖はどんなに忙しくても、「こんな事あれに比べたら大した事無いよね!」と言いつつ、日常の仕事をこなしております。

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